聖域の檻と、微睡みの再会
殿下が立ち去った後も、部屋には彼の残した冷たくも熱い残り香が漂っているようだった。
手の甲に残る、唇の熱。
――昼休み、また様子を見に来る。
その言葉が、まるで時限爆弾のカウントダウンのように私の頭の中で鳴り響いていた。
「……失礼いたします! 遅くなり申し訳ありません。急な呼び出しで席を外しておりまして……」
静寂を破ったのは、慌てた様子で戻ってきた保健医の女性だった。
扉が開く音に、私はビクッと肩を震わせ、慌ててシーツを顎まで引き上げる。
白衣を纏った彼女は、私のベッドサイドまで小走りで歩み寄ると、顔を覗き込んできた。
「あなたが、アルトレイン様ね? 不在の間に、随分とお待たせしてしまったようで……あら?」
謝罪を口にしていた先生が、ふと私の顔を間近で見て言葉を止めた。
「ロシュフォール様からは『顔色が非常に悪く、今にも倒れそうだった』と伺っていたのだけれど……」
謝罪を口にしていた先生が、ふと私の顔を間近で見て言葉を止めた。
「随分と……熱があるようね。顔が真っ赤だわ。アルトレイン様、気分はどう? どこか痛むところはあるかしら?」
「あ……いえ、その……」
先生は「どれ、失礼しますね」と手慣れた動作で私の額に手を当て、もう片方の手で手首を取った。
「……かなり熱いわね。脈拍も異常に速いわ。アルトレイン様、何か持病などはお持ちかしら? 普段から使っている常備薬などは?」
持病、というわけではないけれど。
この激しい動悸と、今にも割れそうなほど混乱した頭を鎮めなければ、本当にまた倒れてしまう。
私は縋るような思いで、掠れた声を絞り出した。
「……あの、教室にある、私の鞄の中に……薬のポーチが、入っています。それがあれば、少しは……」
「あら、そうなのね。わかったわ、私が今から取ってきましょう。あなたは動かずに、ここでじっとしていなさい。いいわね?」
先生はテキパキと準備を整え、「すぐ戻るからね」と言い残して再び保健室を後にした。
パタン、と扉が閉まる。
ようやく、本当の意味で一人になれた。
殿下の残り香も、先生の視線も届かない、カーテンで仕切られた狭い世界。
張り詰めていた緊張がぷつりと切れ、私は深い溜息をついて横たわった。
……どうして、あんなことになったんだろう。
慣れない特別保健室のふかふかなベッドの感触と、押し寄せる極度の疲労に抗う間もなく、私の意識は急速に闇へと沈んでいった。
……温かい。
陽だまりの中にいるような心地よさに包まれて、私はゆっくりと意識の底から浮上した。
まだ頭の芯がぼんやりとしていて、ここがどこなのかも、自分が何をしていたのかも、すぐには思い出せない。
重い瞼を数回瞬かせると、目の前にキラキラと光る金色の糸が見えた。
……綺麗。
寝ぼけた頭で、私はその光の束に、吸い寄せられるように無意識に手を伸ばした。
「……ふふ、お目覚めかな。セレナ」
耳元で響いたのは、いつもの鋭さをすっかり潜めた、驚くほど低く甘い声。
視界が少しずつはっきりしてくると、目の前にはレオナルト殿下がいた。
彼はベッドの脇の椅子に深く腰掛け、片手で頬杖をつきながら、とろけるような眼差しで私を見つめていた。
「……ん……でんか……?」
掠れた声で呟くと、殿下は満足げに目を細めた。
その指先には、保健医の先生が残したはずの一枚の書き置きが、ひらりと弄ばれるように挟まれている。
「先生は急な会議で席を外されたそうだ。……まだお昼には少し早いが、一人で寝かせておいては君も退屈だろうと思ってね。様子を見に来て正解だったな」
殿下はくすりと小さく笑うと、その紙をサイドテーブルに戻した。
眠る前まであんなに火照っていた私の顔は、今はもう本来の白さを取り戻しているはずなのに。
彼の視線が触れる場所だけが、じわじわと甘い熱を帯びていく。
「あまりに幸せそうに眠るものだから、起こすのが惜しくてね。……この静かな時間を、たっぷり独り占めさせてもらった」
殿下はそう言って、書き置きの隣に置かれた私のポーチを、愛おしそうに指でなぞった。




