3月29日(日):水毬分けの日
とある世界では今日は『水の中の丸い緑をよく見て、浮くものと沈むものを無理に同じ顔へしない』日。アルメリアでは『水毬分けの日』として、朝のうちに水の丸い緑を器ごと見直し、休ませるものと揺らしてよいものを分けて、春の水辺を静かに整える。
春休みの日曜の朝は、家の中が少しだけゆるい。けれど、そのゆるさは、物の置き場までゆるくしてよい、という意味ではなかった。窓から入る光は白く、やわらかい。やわらかいぶんだけ、水の表面に浮く細い粉までよく見える。フィオナは戸口の棚の横を通るとき、昨日工房で見かけた丸い緑のことを思い出した。ルミナが川辺の売り子から分けてもらった、水草玉だ。
居間の窓辺へ行くと、浅い木盆の中に、まだまとめて置かれた硝子鉢がひとつある。中には丸い緑が四つ。どれも小ぶりで、手のひらに半分のるくらいの大きさだ。けれど、朝の光の中では同じ顔に見えなかった。二つは底に落ち着いている。ひとつは半分だけ浮いて、もうひとつは水面近くまで上がって、硝子の内側へ頬を寄せるみたいに止まっていた。
「みどり、うえ いってる」とクリスが言った。
「ほんとだ」とレオンも覗き込む。「昨日は下のほうにいたのに。春の水って、静かでも中で少し動くんだね」
ルミナが水差しを卓へ置きながら頷いた。「浮きやすいものと、沈んで落ち着くものが出るのよ。そこへマナ・ポーレンが乗ると、上にいるほうから先に顔が変わる」
フィオナは鉢の口を見た。四つが多すぎるわけではない。けれど、浮くものと沈むものが一緒にいる朝には、少しだけ狭い。水面近くへ上がった丸い緑が動くたび、底の丸い緑の影まで揺れる。影が揺れると、見たい色まで落ち着かない。
「分けたほうがいいかも」
そう言うと、ルミナはすぐ頷いた。「私もそう思ってた。浅い皿を出そうか、深い鉢を残そうかで迷ってたの」
レオンが言う。「ひとつにまとめると見た目はきれいだけど、今日の顔は分かりにくいね。浮くほうを無理に沈めるより、今のまま分けたほうがよさそう」
その言い方が、昨日の瓶札に少し似ていた。待つ瓶と飲める瓶を先に分けたから、手が迷わなかった。今日もたぶん同じだ。丸い緑が悪いんじゃない。朝の器が、まだ昨日のままなだけだ。
フィオナは棚から白陶の浅い皿を一枚と、細長い硝子鉢を一つ出した。白陶の皿は口が広く、水面の様子が見やすい。深い硝子鉢は、底に落ち着くものの影が揺れにくい。さらに、皿の下へ薄い灰白の布を敷き、鉢の下には生成りの布を小さく折って置いた。器が冷えた卓に直接触れないようにするためだ。
「浅いほうは、うくの?」とクリスが訊く。
「うん。上へ行くほうを、広く休ませるの」
「しずむのは?」
「深いほう。下で静かになれるから」
ルミナが横で小さく笑う。「よかった。説明がもう半分終わってる」
フィオナは水面をよく見た。白い粉が、ごく薄く、鉢の縁へ寄っている。マナ・ポーレンだ。春の朝は、目に見えないうちに水の上へ留まり、浮くものから先に触れる。
「先にこれを取る」
フィオナは小さな木匙で、水面の縁だけをそっとすくった。粉を散らさないよう、急がない。ひとすくいで十分だった。水が静かに戻ると、水面近くの丸い緑の輪郭が少しだけはっきりした。
「それ、上の子だけについてた?」とレオンが訊く。
「上へ来てる子のほうが、先に触りやすいから」
「じゃあ、浮くのが悪いんじゃなくて、浮いたときの置き場がいるんだ」
「そう」とフィオナは頷いた。「今日の顔に合う器がいる」
丸い緑を移すとき、フィオナは指でつままず、小さな受け布を水の中へ入れて支えた。丸いものは、急ぐとすぐ形が乱れる。最初に半分だけ浮いていたものを白陶の浅皿へ移す。次に、水面近くまで上がっていたものも同じ皿へ。浅い皿の水は少なめにし、口を広く取る。そうすると、浮いても硝子の壁へ頬を押しつけずに済む。
底に落ち着いていた二つは、細い硝子鉢へ残した。深さがあるぶん、水の揺れが上だけで終わりやすい。沈んだままの丸い緑の影が、前よりゆっくり見えた。
「わあ」とクリスが小さく声を漏らす。「みどり、べつの かお」
本当に、そうだった。同じ丸い緑なのに、浅い皿では軽く見える。深い鉢では静かに見える。まとめていたときは、どちらも少しずつ急いでいるように見えたのに、分けた途端、その日の顔に戻った。
レオンが浅い皿と深い鉢を見比べる。「上の子は“見ていいよ”って顔で、下の子は“今日はここでいい”って顔だね」
「わたしも そう おもう」とクリスが真似をする。「ここで いい」
ルミナは白陶の縁を布で軽く拭いた。「春の水って、何でも一緒に見せようとすると、かえって見えなくなるのよね」
フィオナは余った飾り石を小箱へ戻した。最初は皿のそばへ置こうかと思っていたが、今日は要らない。水草玉を見る朝に、石まで並べると、どれを見に来たのか曖昧になる。
「今日は石、置かないの?」とレオンが訊く。
「置かない。今日は丸い緑の顔だけ見る」
「減らしたほうが見える日か」
「うん。たぶん今日はそれ」
そのあと、家族でしばらく窓辺に立った。誰も触らない時間を作ると、浅い皿の二つは、寄りすぎず離れすぎずに水面近くで落ち着いた。深い鉢の二つは底の近くで影を丸くしている。無理に同じ深さへ揃えないほうが、かえって揃って見える朝もあるのだと、フィオナは思った。
「これ、友だちに見せる?」とレオンが訊いた。
フィオナは少しだけ考えた。「今日は家だけでいいかも。明日になっても同じ顔なら、そのとき」
ルミナが頷く。「そうね。今日の整えは、見せるためというより、落ち着かせるためだもの」
落ち着かせる、という言い方が好きだった。直すでもなく、変えるでもなく、そのものが今日いちばん楽な顔でいられるようにする感じがしたからだ。
昼へ近づくころ、フィオナは浅い皿の下の灰白の布を一度だけ取り替えた。窓辺は日が回ると少し温かくなり、水滴が卓へ残る。残った湿りは、小さいのに、あとで器の位置を迷わせる。
「そこも かえるの?」とクリスが不思議そうに訊く。
「うん。皿の下がぬれると、戻す場所があいまいになるから」
「したも だいじ」
「そう。下も大事」
午後になる前に、フィオナは白陶の浅皿を窓から半歩だけ離した。日が高くなると、浮くほうが少しだけ上がりすぎるからだ。深い鉢のほうはそのままでいい。沈むものは、朝よりさらに落ち着いて見えた。
その並びを見ながら、フィオナは明日のことを思った。高いところから何かを見る日には、きっと今日と同じで、立つ場所と座る場所を分けたほうがいい。見たいものが同じでも、見る高さが違えば、落ち着く位置も違うのだから。
夕方、戸口の棚へ戻す前に、フィオナは小箱のふたを閉めた。余った飾り石、使わなかった小さな受け布、木匙。今日使わなかったものが先に片づいているだけで、明日の朝が少し静かに思えた。
梁の上でスノーが、白陶の浅皿と深い硝子鉢の水の高さを見下ろして嘴を鳴らした。「沈むやつを無理に起こすな。浮くやつを責めるな――器を合わせて休ませりゃ、春の丸い緑は自分で落ち着く」




