3月28日(土):泡札の日
とある世界では今日は『泡の立つ飲みものを、あわてず、おいしい顔のまま渡すために、待つものともう飲めるものを分ける』日。アルメリアでは『泡札の日』として、細い瓶の口へ掛ける札を掛け直し、泡を待つ瓶と飲み頃の瓶を、朝のうちに迷わない並びへ整える。
春休みの土曜は、平日より静かなのに、家の中の手は少しだけ落ち着かない。通りへ急ぐ鐘はないのに、戸口の棚や工房の卓には、週のあいだに持ち越した小さな段取りが残っている。フィオナは居間を抜ける前に、昨日たたんだ灰白の布の横へ、赤い糸の縫い目が目印の小さな布袋を見つけた。札袋だ。細い瓶の口へ結ぶ札と紐を入れておくための袋で、春先はこういう小さいものほど、どこかへ混ざりやすい。
「それ、きのうの?」とレオンが訊く。
「ううん。たぶん、お父さんの」
台所のほうから、アストルの声がした。「たぶんじゃない、ぜったい俺の。いや、俺の……はずだったんだが」
フィオナが工房を覗くと、窓ぎわの低い棚に、細い瓶が4本並んでいた。淡い青の硝子瓶が2本、透明の瓶が2本。どれも口金に紐だけはついているのに、札がない。瓶の中の山柑の飲みものはうっすら泡を含み、光に当たると、まだ細かな粒が肩の近くへ残っているものもあった。
「今日は表に出すんでしょう?」とルミナが言った。「春休みの土曜だから、修理待ちの人にも一口だけ出すって」
「そのつもりだったんだ」とアストルは頭をかいた。「昨日の夜、瓶の口を拭いて、札も拭いて、札袋へ戻した……までは覚えてる。で、今朝見たら、どれが“まだ待つ”で、どれが“もう飲める”か分からない」
クリスが棚の前で目を丸くした。「あわ、まだ?」
「ある」とレオンがすぐ言った。「でも、同じくらいに見える。こういうの、先に飲めるほうを決めておかないと、開けたときにあふれる」
フィオナは札袋を開いた。中には細長い札が6枚。『まつ』『のめる』と書かれた札が、それぞれ3枚ずつ入っている。けれど紐の長さがばらばらで、結び目もゆるい。昨夜、急いで戻したのだろう。濡れを避けるための袋なのに、今はその中で、札の役目まで曖昧になっていた。
「札袋は悪くない」とフィオナは言った。「戻し方が、まだ朝の形になってないだけ」
アストルが肩をすくめる。「朝の形って、こわい言い方するなあ」
「でも、だいたいそれです」とルミナが笑う。「瓶が悪いんじゃなくて、手順が寝ぼけてるの」
フィオナはまず、瓶そのものを見た。泡の残り方。肩の曇り。底のあたりの落ち着き。次に、棚の高さを見る。窓に近い上段はまだ少し冷えが残り、手前の卓は人がすぐ触れる。待つ瓶と飲める瓶を、同じ棚の同じ顔で並べているから、手が迷うのだ。
「分けよう」
その一言で、自分の中の焦りも少しだけまっすぐになった。
フィオナは工房の壁際の小さな釘を2本使った。左に札袋、右に空の輪紐。札袋の中から『まつ』の札を左手へ、『のめる』の札を右手へ分ける。
「待つ瓶は、窓ぎわの上段。札は左の釘から取る」
「飲める瓶は?」とレオンが訊く。
「手前の盆。札は右の輪紐へ掛けておく。瓶を動かす前に札を持つ」
「先に瓶じゃないんだ」
「うん。先に札。瓶を持った手で考えると、途中で迷うから」
アストルは感心したように頷いた。「なるほどな。俺、瓶を見たあとで札を探してた」
「その順だと、泡より先に手が立つわよ」とルミナが言う。
フィオナは灰白の布を小さく折って、窓ぎわの棚の上へ敷いた。待つ瓶の底が冷えすぎないようにするためだ。もう飲める瓶のほうは、手前の木盆へ薄い生成りの布を敷く。盆はそのまま戸口まで運べる。動線が一つになると、瓶を持ち替える回数が減る。
「クリス、ここはさわらないで見てて」とフィオナが言うと、クリスはすぐ両手を胸の前で重ねた。「みるだけ」
「ぼくは?」
「レオンは札係。左の釘から取るか、右の輪紐から取るかだけ見てて」
「了解」
4本の瓶のうち、泡がまだ細かく肩へ残る2本を上段へ置く。『まつ』の札を掛ける。落ち着いている2本は木盆へ移し、『のめる』の札を掛ける。たったそれだけのことなのに、棚の前の空気が変わった。待つものは待つ顔になり、もう飲めるものはすぐ手に取ってよい顔になる。
「分かる」とレオンが言った。「同じ瓶でも、置き場が決まると急がなくてよくなる」
アストルは盆の前で手を止めた。「じゃあ、表へ出すのはこの2本だけ」
「うん。上段の2本は、あとで札を掛け替える」
クリスが小さく首を傾げる。「あわ、なくなったら?」
「そのときだけ、左から右へ移すの」
「おひっこし」
その言い方に、皆が少し笑った。待つ瓶も、飲める瓶も、ただ並べるだけではなく、朝のあいだにちゃんと移る場所を持つ。そう考えると、工房の棚は急にやさしいものに見えた。
しばらくして、最初の2本を戸口の小卓へ出した。修理を取りに来た通りの人が、笑って礼を言う。山柑の香りは強すぎず、泡ももう落ち着いている。アストルが一本目を開けても、あふれない。小さな音だけがして、硝子の口元に透明な粒がきらりと寄った。
「よかったあ」とアストルが言う。
「最初からそう言うと思ってた」とルミナが返す。
工房へ戻ると、上段の瓶の泡も細かく引いていた。レオンが左の釘から『まつ』を外し、右の輪紐へ掛け替える。
「これでいい?」
「うん。それで、瓶も上から盆へ」
今度は誰も迷わなかった。札が先に動き、瓶があとからついてくる。段取りが立つと、手は急がなくて済む。急がなくて済むと、泡も騒がない。
最後の1本を出し終えたあと、フィオナは空になった札袋を乾いた布で軽く拭いた。朝のうちに何度も手が入ったせいか、赤い縫い目のあたりだけ少しだけ温かい。中身を守る袋は、役目が終わったあとも、戻る場所が要る。
「札袋も、定位置ね」とルミナが言う。
「うん。左の釘の、いちばん奥」
クリスが納得した顔で言った。「ふくろ、まよわない」
「そう。袋が迷わないと、札も迷わない」
戸口の外では、桜の枝先が昨日より少しだけひらいていた。春のものは軽い。軽いから、きれいに見える。そのかわり、置き方ひとつで、すぐ表情が変わる。髪輪も、瓶口の札も、同じだった。
午後へ入る前、フィオナは空いた木盆を棚へ戻しながら、水鉢のそばに置かれた丸い緑の玉を見た。ルミナが昨日、川辺の売り子から分けてもらった水草玉だ。浅い皿へ移すか、深い鉢へ沈めるか、まだ決めていないらしい。水の中の丸いものも、たぶん置き場で顔が変わる。
梁の上でスノーが、左の釘に戻った札袋と、空いた木盆の縁を見下ろして嘴を鳴らした。「泡は急がせる顔をしてるが、急がせてるのは手のほうだ――待つ札と飲む札を先に分けろ。そうすりゃ、春の瓶は勝手にこぼれん」




