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3月15日(日):足元結びの日

 とある世界では今日は『歩くための結び目を、もう一度だけ確かめる』日。 アルメリアでは『足元結びの日』として、戸口の木皿に靴刷毛を置き、紐の先と留め具の噛みを見てから外へ出る。雪解け水が増える前に、灯路の石畳が少しだけ滑りやすくなる季節だからだ。


 夕方、フレイメル魔具修理店の戸鈴が鳴った。


 フィオナは手を洗い、作業机の端の白い紙片を集めていた。昨日の返し札の切れ端。白は混ざらないための色なのに、粉が付くとすぐに目立つ。目立つと、焦りも一緒に立つ。


「きょうは休みだからって、何も起きないわけじゃないね」レオンが言った。靴を脱いで、つま先の泥を指で示す。「灯路の端、濡れてた。ぼくの靴、滑りそうだった」


 ルミナが木皿を台所から運び、戸口の下へ置いた。「足元結びの日だもの。結び目だけじゃなくて、置き場所もね」


 クリスがそれを真似して、小さな布を皿の上へ揃えた。「ここ。くつ、ふく。ぬれ、だめ」


 戸口に立っていたのはテオくんだった。外套の裾に、乾きかけの泥が点々とついている。背負い袋の口は二回折られ、札の角が揃っていた。


「こんばんは。……昨日の“あとで”、きょうです」


 言葉は短いのに、目が落ち着かない。フィオナは返事より先に、テオくんの足元を見た。


 片方の靴の留め具が、浅く噛んでいる。歩くたびに革が引かれ、結び目が少しずつ逃げていく形だ。灯路の端の湿りと、マナ・ポーレンの粉と、泥の細い粒――町のものが、留め具の溝へ薄く噛む。


「テオくん。靴、止まりが甘い」


 テオくんは目を瞬かせ、すぐに足を引いた。「大丈夫。きょうは走らない」


「走らなくても、落ちる」アストルが奥から言った。手は作業台に置いたまま、視線だけを寄こす。「落ちたら拾う時間で、結局走る」


 テオくんの耳の先が赤くなる。「……直せますか」


「直す」フィオナは言った。昨日の白い包みを“守る”のは、包みそのものじゃない。渡すまでの手順だ。


 フィオナは木皿を作業机へ移し、靴の留め具を皿の上へ置いた。泥を落とす布は皿の上。粉が散らばらないように、受け皿を先に決める。


 留め具の小ねじを外し、噛みの爪とばねを出す。溝に、薄い粉と湿りが混ざって膜になっていた。灯路の泥は粒が粗く、花粉は細かい。混ざると、どちらでもない粘りになる。


 刷毛で払う。乾いた布で拭く。支点穴に細い糸を通して、奥の粉を引き出す。


 次に爪の当たり。片側だけ角が立ち、噛む深さが揃わない。フィオナは布の端で一息だけ撫でた。削らない。噛む角を消せば、今度は止まらない。


「ここ、ばね端が少し立ってる」


 ペンチで端を寝かせると、ばねの戻りが揃った。揃うと、留め具は急がなくなる。


 テオくんが机の端を支え、黙って見ている。指が近い。近いのに、昨日みたいに逃げない。


 フィオナは一度だけ顔を上げた。


 テオくんも、同じタイミングで見返していた。


 言葉が出そうで出ない間が、二人の間に落ちる。落ちたのに、拾わなくていい気がした。


「……その」テオくんが言いかけて、口を閉じた。


 フィオナは頷くだけで返した。頷きは短いのに、距離が一歩だけ縮む。


「紐も替える?」フィオナが訊くと、テオくんは背負い袋から白い細紐を出した。蝋引きされて、指に粉が付きにくい。


「白、汚れやすいから迷った。でも、混ざらない」


 フィオナは紐の先へ小さな先金を当て、潰しすぎない力で締めた。先が揃えば穴を通る。通れば、結び目が揃う。


 留め具を組み戻し、靴へ戻す。噛みは同じ深さになった。


「試し歩き」フィオナは言った。


 テオくんが一歩だけ踏み出し、戻る。留め具は逃げない。


「……足元が落ち着くと、息も戻る」テオくんが小さく言った。


 居間からレオンが顔を出す。「テオ兄、ヒーローだ。靴が外れないと、袋も守れる」


 クリスが続けて頷く。「テオおにいちゃん。くつ、えらい。にげない」


 ルミナが笑って、木皿の縁を指で揃えた。「にげない、が増えたわね」


 フィオナは留め具の箱の内側に、小札を貼った。『ぬれたら ふく』『まえに はらう』。道具は直して終わりじゃない。次の手に残す。


 それから、テオくんが白い包みを差し出した。昨日、机の『あとで』に置いたものと同じ、柔らかい紙だ。


「店の分、ってことにして……」と言いかけて、テオくんは途中でやめた。


 フィオナは受け取り、すぐには開けなかった。


 先に、目を上げた。


 テオくんの視線が逃げない。逃げないのに、急がない。


 フィオナは白い包みの折り目を一つだけほどき、中の札を見た。短い字で、『あしもと』。


 白い紐が、もう一本。小さな先金が二つ。さらに、細い布が一枚。


「……私の?」


「うん。分校の外套、裾が長いから。足元がほどけると、危ない」テオくんは言って、また短く咳払いした。「直すの、得意だろうから」


 得意だから、じゃない。気づいたから、だ。


 フィオナは胸の奥が温くなって、代わりに手元の紐を揃えた。「ありがとう。……混ざらない白、好き」


 テオくんの肩が少し下がった。「よかった」


 木皿の上では、昨日の砂糖菓子の箱がまだ口を揃えて待っていた。レオンが見上げて言う。「開ける前に、足元。開ける前に、目。順番って大事だね」


 クリスが小さく手を叩く。「じゅんばん。まもる」


 梁の上でスノーが、羽を畳み、白い紐の先と二人の目線の高さを見下ろして嘴を鳴らした。 「足元を揃えたなら、次は舌も揃えろ――札が増える朝は、迷った顔がいちばん目立つぞ」


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