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3月16日(月):見守り野の札日

 とある世界では今日は『ただ通るだけだった場所を、眺めて守る場所として決める』日。アルメリアでは『見守り野の札日』として、芽吹きの土や雪解けの縁へ小さな札を立て、入るところと見守るところを静かに分ける日。


 夜、食卓の端に、札の束が三つ並んでいた。


 朝は一つずつだった。初等学舎からは丘の観察路に立てる札。星粒ほいくえんからは、散歩の子どもにも分かる絵札。商店街からは、雪解け水で濡れやすい石畳の端へ下げる注意札。帰る時間が少しずれていたせいで、昼のあいだは机の端へ仮置きするだけになり、夕餉の頃には白い札も薄茶の札も、だいぶ似た顔で重なっていた。


「朝から増えるって、こういうことだったんだな」とアストルが言う。「見た目が静かなぶん、混ざると面倒だ」


 レオンは一枚持ち上げて首を傾げた。「これ、丘? ……いや、川辺かも」


「それ、川辺です」


 戸口から声がして、みんなが振り向いた。テオくんが背負い袋を抱えて立っていた。袋の口は二回折られ、片手には細長い札束がある。


「商店街の裏手の分です。パン屋の脇の土がゆるんでいて、追加になりました」


 テオくんはそう言って束を差し出し、それからルミナとアストルへ少しだけ頭を下げた。「こんばんは。遅くに、すみません」


「遅くはないわ。ちょうど混ざりかけてたところ」とルミナが笑う。


 フィオナは受け取った束を見て、紐の色に気づいた。白い細紐。昨日、自分で先金を締めたのと同じ蝋引きの白だ。何も言わず、机の右端へそっと置く。


 レオンの目がすぐ動いた。「お姉ちゃん、その束だけ場所がちがう」


「見本にするの」とフィオナは短く答えた。


「ふうん」とレオンは言ったが、声の端が少しだけ面白そうだった。


 グレゴールが眼鏡を押し上げた。「まず、まぜない場所を作れ。話はそれからだ」


 クリスが木皿を抱えて走りかけ、ルミナに止められて歩き直す。「ここ。まぜない」


「いい場所ね」とルミナが言う。「木皿は右。札は中央。読み終わったものは左」


 置き場が決まると、手が急がなくなった。


 フィオナは札を一枚ずつ広げる。紙の縁には、雪解けの湿りとマナ・ポーレンの細かな粉がうっすら残っていた。重ねたままでは張りつく。乾いた布で端だけを払う。こすらず、落とすだけ。ルミナは箱を三つ出し、底に薄布を敷いた。丘、川辺、町なか。アストルは小さな札を切り、『みるだけ』『ぬれる』『とおる』と太く書いていく。


「読み上げる役、やる」とレオンが胸を張る。「文字が多いと、手が先に動くから」


「それは助かる」とフィオナが言う。


 レオンは札を受け取り、声を区切って読む。「『まだ はいらない』は丘。『みずべ ちゅうい』は川辺。『みちの はし ぬれる』は町なか」


 クリスは絵札を覗き込み、指で芽の絵をつついた。「これ、みる。これ、はいらない」


「うん。絵は先に分かるものね」とルミナが頷く。


 グレゴールは札の穴を順に見ていた。「穴が二つの札は、風に返りやすい場所用だ。川辺へ回せ。春先の風は紙の腹から持ち上げる」


 アストルがすぐ小札を足す。『あな ふたつ=かわべ』。迷いが一つ減る。


 混線は、札そのものより、置き方からほどけていった。丘、川辺、町なか。さらにその中で、見る札と通る札と濡れ札。紐は丘を白、川辺を灰、町なかを赤茶に分ける。色は強すぎないほうがいい。景色を守る札なのに、札のほうが景色より先に見えてしまっては本末転倒だった。


「見本は三か所だけでいいんだよな」とアストルが言う。


「灯路番所の係、そう言ってた」とフィオナが答える。「全部は明日でいいって」


 テオくんが小さくうなずく。「商店街の裏手は、今夜ひとつあると助かります。朝の仕込み前に、人が通るので」


 その言い方が仕事の話なのに、家の中では妙にやわらかく響いた。ルミナが湯呑みを置きながら、何も言わずにフィオナを見る。言わない顔が、いちばんよく分かる。


 夕餉の片づけを終えると、家族は見本札を持って外へ出た。近い場所を三つだけ。理由ははっきりしている。今夜の目的は、全部を終えることではなく、朝に迷わない置き方を残すことだ。


 ひとつ目は、ひつじ雲ベーカリーの脇。ゆるんだ土の際に、小さな芽が二つ出ている。フィオナが低い杭へ『みるだけ』の札を結ぶと、テオくんが少し離れて見た。


「その高さ、ちょうどいいです。目には入るけど、景色を切らない」


「高いと、札だけが先に見えるから」


 言葉が重なって、後ろでレオンがにやっとした。


 ふたつ目は川辺の見回り道。二つ穴の札を灰の紐で結ぶ。ルミナが結び目を押さえ、アストルが杭の傾きを直し、クリスが下の泥を布でぬぐう。「ここ、ぬれる。くつ、すべる」それだけで、札の役目がちゃんと見えた。


 みっつ目は、初等学舎へ続く丘道の曲がり角。レオンが『まだ はいらない』の札を持ち、フィオナが結び、グレゴールが少し離れて傾きを見た。


「立て札は、止めるためだけのものじゃない」とグレゴールが言う。「通る道を残すために立てる」


 レオンはその言葉を、覚えるみたいに一度だけうなずいた。


 家へ戻るころには、机の上の札束は朝とはまるで違う顔になっていた。増えたはずなのに、増えた感じがしない。置き場が決まり、役目が見えると、数は脅しではなくなる。


 フィオナは最後に、右端へ避けておいた白紐の束を持ち上げた。丘の箱へ入れる前に、小さな札を一枚足す。『みほん』。


 それを見て、ルミナが笑った。「それ、見本の顔してないわね」


「そう?」とフィオナが言う。


「うん。大事なものの置き方してる」


 レオンがすぐ口を挟む。「ぼくもそう思った。見本っていうより、その……」


 言い切る前に、アストルが肩をすくめる。「夜の家族会議は、そのへんでやめとけ。札が赤くなる」


「札は赤くならないわ」とルミナが言う。「なるのは別のほう」


 テオくんは咳払いをして、空になった袋の口をきっちり二回折った。フィオナは箱へ束を戻し、何も言わないまま、その折り目だけを一度見た。昨日より、目を上げるのが自然だった。


 クリスが眠そうな声で言う。「しろ、はる。みる」


 それで十分だった。


 梁の上で、スノーが羽を畳み、揃った札束と戸口の泥落とし布を見下ろして嘴を鳴らした。「守る場所を決めたなら、次は読む順を決めろ――春の札は増える。だが家の手が揃っているうちは、景色も道もまだ迷わない」


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