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3月13日(金): 通り穴通しの日

 とある世界では今日は『地下の道がほんとうに通るか、札を通して確かめる』日。 アルメリアでは『通り穴通しの日』として、灯路番所の地下にある細い通り穴に、端札を付けた通し紐を通し、引っかからずに往復できるかを確かめる。春の雪解け水が増える前に、詰まりと傷を先に見つけるための、静かな点検だ。


 夕方、フレイメル魔具修理店の戸鈴が鳴った。


 フィオナは王立魔法学院分校の外套を脱ぎ、手を洗ってから工房へ入った。外の空気は湿り、甘い粉の匂いが薄く混じる。マナ・ポーレンは、道具の隙間へ入り込むのが得意だ。


 作業机の端に、細い箱が置かれていた。上蓋に短い札が貼られている。『とおし いと』。


 アストルが革手袋を外しながら言った。「灯路番所へ渡すはずの、通し紐の糸巻きだ。……きょうが通り穴通しの日なのに、戻りが鈍い」


 糸巻きは掌に収まる木箱で、内側に小さな巻き胴と、戻りを止める爪がある。通り穴に紐を通して札を送るとき、張りを保つための道具だ。戻りが鈍いと、札が途中で止まり、点検が止まる。


「見せて」フィオナは言った。


 取っ手を回す。最初は軽い。次の半回転で、急に渋くなる。戻すと、爪が噛みきらず、巻き胴がわずかに逆走した。


「粉と湿り」フィオナは短く結論を置いた。「あと、爪の当たりが浅い」


 戸鈴がもう一度鳴って、甘い匂いが少し濃くなる。


「こんばんは」テオくんが戸口から頭を下げた。手には布包み。番所へ差し入れる丸パンらしい。表面に小さな穴がいくつも空いている。 「灯路番所の点検、きょうでしたよね。焼きたてを届ける途中で……アストルさん、これ、間に合ってますか」


 アストルが咳払いをした。「間に合わせるところだ。……フィオナがな」


 テオくんの視線が、糸巻きへ落ちる。フィオナはそれを見て、胸の中の焦りを机の上へ置いた。焦りは道具に混ざると厄介だ。


「直す。すぐ」フィオナは言って、糸巻きの留めねじを外した。


 蓋を開けると、巻き胴の縁に白い粉が薄く貼りついている。昨日の砂糖の粉と、今日の花粉と、紙粉が混ざった色だ。湿りを拾うと、粉は糊みたいになる。


 フィオナは刷毛で粉を払ってから、乾いた布で縁を拭いた。爪の支点穴へ細い糸を通し、詰まりを引き出す。穴が軽くなると、爪が戻る速さが変わる。


 次に、爪とばね端。ばね端が少しだけ立っていて、巻き胴の側板に擦れていた。擦れは音を先に出さない。戻りを遅らせて、札だけが迷う。


 フィオナはペンチで端を寝かせ、爪の角を布で一息撫でた。削らない。引っかける角が消えると、今度は止まらない。


「薄布、ある?」フィオナが言うと、ルミナが台所から小さな布片を差し出した。「昨日の木皿の敷き布の切れ端。粉を受けるだけなら、これでいい」


 布片を側板と巻き胴の間へ一枚挟む。粉が噛んでも布が受け、木が直接粘らないようにする。


 アストルが小さな布袋を置いた。中で乾いた豆が鳴る。「箱の隅に入れろ。戻りは湿りで鈍る」


 組み戻す。取っ手を回す。戻す。爪がきちんと噛み、逆走が止まった。


「現場で、通し札までやる」フィオナが言った。「ここで回っても、穴で止まると意味がない」


 灯路番所へ向かうなら、理由が要る。フィオナはテオくんの布包みを見てから、言葉を選んだ。 「私、点検の最初だけ見て帰る。道具の癖を、札で残す」


「……お願いします」テオくんが丁寧に言った。少し近い距離で、布包みがフィオナの腕に触れた。触れたのは一瞬で、熱いわけじゃないのに、指先が変に覚える。


 居間からレオンが顔を出す。「お姉ちゃん、穴、こわくない? でも、テオ兄と行くなら、ヒーローが二人だね」 クリスがその後ろで頷く。「テオおにいちゃん。あな。とおる。ふだ」


 ルミナが笑って、糸巻きの箱へ小札を添えた。『まきどおは ぬらさない』『まえに ふでではらう』。段取りは、道具より長く残る。


 灯路番所の地下は、石の匂いが濃かった。通り穴は、灯路石の下を短く横切る、点検と排水のための細い通し穴だ。今日はその穴に、端札の付いた通し紐を通して、引っかかりを確かめる。


 灯路番所の係が、鐘の横に札を貼っていた。『はじめ』と『おわり』。昨日の広場の札と同じ短さだ。


 フィオナは糸巻きを渡し、テオくんは丸パンの包みを棚へ置いた。係が通し紐の先に端札を結び、穴へ入れる。


 取っ手を回す。巻き胴が素直に回る。紐が進む。戻す。札が戻る。


 途中で、ほんの小さな引っかかりがあった。係が息を止める。フィオナは取っ手を止めず、張りだけを少し緩めた。緩めるのは魔法じゃない。手の角度だ。張りが変わると、札が穴の縁を撫でて通る。


「通った」係が小さく言った。


 端札は、行って戻って、同じ角を向いていた。点検は通った。穴も、道具も。


 フィオナは係の台帳の余白に短い札を書いた。『ひっかかりは つよくひかない』『はりを ひといき ゆるめる』。次の人が迷わないように。


 帰り道、夕の灯路が薄く光りはじめる。テオくんが隣を歩き、布包みの残りを持つ手が、フィオナの手の甲にもう一度だけ触れた。 「明日……白い包み、用意してます」テオくんは早口で言って、すぐに咳払いした。「番所の人には、内緒で」


 フィオナは頷いた。頷きは短いのに、胸の奥の焦りが、別の形に変わる。


 家に戻ると、木皿の上の砂糖菓子が待っていた。レオンが箱の口を二回確かめ、クリスが小さく言う。「くち、そろえる」 甘い匂いが、今日の点検の静けさに、やっと許されて混ざった。


 梁の上でスノーが、羽を畳み、通し札の角と糸巻きの爪を見下ろして嘴を鳴らした。 「通すなら、戻りも通せ。札が戻ってきてから、甘いのを開けろ」

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