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3月12日(木):札入れ替えの日

 とある世界では今日は『入れものの口を締め直し、落としたくない札を一つだけ選ぶ』日。 アルメリアでは『札入れ替えの日』として、町の人が札入れ袋を開き、角が潰れた札を抜き、裂けた仕切りを縫い、口金の当たりを確かめる。入れものが整うと、息が先に落ち着く。


 夕方、フレイメル魔具修理店の戸鈴が鳴った。


 フィオナは王立魔法学院分校の外套を脱ぎ、手を洗ってから工房へ入った。昨日の広場の一分が、まだ胸の奥に薄く残っている。黙りの時間は終わっているのに、指先の動きだけが慎重だ。


 作業机の端で、アストルが革片を裏返していた。小さな口金と、薄い押さえ板。金属の縁が新しく、どこか落ち着かない光をしている。 「札入れ袋の口金だ」アストルが言った。「早く閉まるやつを作った。……閉まりすぎる」


「閉まりすぎる?」フィオナが覗くと、口金は片側だけが深く噛み、反対側が浮いていた。浮いた側から、細い札が一枚、覗いている。


 戸鈴がもう一度鳴った。砂糖の匂いが先に入って、テオくんが戸口をくぐった。両手に、紙で包んだ小箱と、革の札入れ袋を持っている。


「約束」テオくんは短く言って、小箱をルミナへ渡した。「砂糖菓子。家族分。逃げないように、口を二回折ってあります」


 レオンが居間から飛び出してきて、目を輝かせた。「ほんとに来た。昨日の約束!」 クリスがその後ろで小さく手を挙げる。「テオおにいちゃん。あまい。にげない」


 ルミナは笑って、木皿の上に小箱を置いた。「入れものの口を守れる人は、約束も守れるのね」


 テオくんは耳の先を赤くして、フィオナへ札入れ袋を差し出した。「こっちは……仕事の札が落ちる。閉めたつもりでも、歩くと口が開く」


 アストルが眉を寄せた。「それ、俺の口金か」


 フィオナは札入れ袋を受け取り、口金を指で押した。片側だけ、硬い。硬さに引っ張られて、革の口が斜めにねじれる。ねじれた分だけ、内側の仕切りが擦れて裂け、札が滑って外へ寄る。


 その拍子に、袋の中から小さな灯り文が一枚、すべって落ちた。角に、伝言屋の受け取り刻印。宛先は短く、『フレイメル魔具修理店』。 レオンが先に拾って、目を丸くする。「これ、うち宛て……?」 テオくんが慌てて手を伸ばし、言葉が途中で切れた。


 ルミナが視線だけで察して、すぐに木皿の陰へ手紙を戻した。「人の札入れは、勝手に開かない。ね」 レオンは「うん」と頷いたが、頬が少しだけにやけている。 クリスは小声で言った。「てがみ。だいじ」


 灯り文の紙角は、何度も開け閉めされた形で、白いのに温度があった。小さな刻印の跡が、そこだけ少し深い。


 フィオナは耳が熱くなるのを、指先へ逃がした。逃がす先があると、顔に出ない。


「当たりが偏ってる。ばねが強い。革が負けてる」フィオナは結論だけを置いた。 テオくんが小声で言った。「札が混ざると、配達の順番が壊れる。……それが怖い」


 昨日の広場で、札を貼る位置を揃えた。揃わないだけで、子どもの息が先に出た。札は小さいのに、順番の骨になる。


「直す」フィオナは言った。「閉まる速さじゃなくて、同じに閉まるのが大事」


 工房の灯りの下で、フィオナは口金を外した。留めの小ねじを二つ。外す前に、角度を布に写す。戻すときの目印だ。


 口金の溝に、白い粉が薄く噛んでいた。砂糖の粉と、学院の紙粉と、外のマナ・ポーレン。三つが混じると、滑りが悪くなる。 フィオナは短い刷毛で溝を掃き、乾いた布で縁を拭いた。


 押さえ板の角は少しだけ丸い。丸さが、片側だけ深く食い込む原因になっている。 細い鑢で、当たりの強い側だけを一息削る。削りすぎない。閉まりが甘くなると、今度は口が逃げる。


 次に、ばね。ばねの端が少しだけ捩れていた。アストルが急いだ締めの力が、端に残ったのだろう。 フィオナは小さなペンチで端を戻し、支点の穴を乾いた糸で通して粉を引き出した。穴の奥が綺麗になると、ばねは余計に暴れない。


「テオくん、見る?」フィオナが言うと、テオくんは頷いて机の端を支えた。手が近い。近いのに、二人とも言葉を増やさない。増やすと、焦りが混ざる。


 アストルが咳払いをした。「ほら、家の中が静かすぎる。甘いのが来たのに」 ルミナが台所から返した。「静かなのは、見守ってるからよ」


 レオンが声を落として囁く。「お姉ちゃん、テオ兄と、札を直してる」 クリスが真似して囁く。「ふたり。なおす」


 次は革だ。口の内側の仕切りが裂けている。裂け目に紙札の角が噛めば、口金を押すたび傷が広がる。 フィオナは同じ厚みの革片を選び、裂けた仕切りの裏へ当て布をした。縫い糸は細すぎないもの。糸が細いと革が切れる。針穴の間隔を揃え、角で止める。


 最後に、口金と革の間へ薄い布を一枚挟んだ。粉が噛んだとき、布が受けてくれる。布は吸いすぎない。湿りを呼べば、また固まる。 アストルが小さな布袋を差し出した。中で乾いた豆が鳴る。「箱の隅に入れろ。湿りは豆に吸わせる」


 フィオナは札入れ袋の内側に、短い札を貼った。『ぬれたまま しまわない』『くちを そろえて とじる』。札は、叱るためじゃない。戻るための目印だ。


 組み戻して、閉める。カチッ、と口金が同じ深さで噛んだ。開けても、札は仕切りに残る。閉め直しても、口は斜めにならない。


 テオくんが受け取り、深く頭を下げた。「ありがとう。……家の人に、見られてた」 「見られてたのは、手つき」フィオナは短く返した。「手つきが揃うと、札も揃う」


 ルミナが木皿の小箱を指で示した。「甘いの、今は開けない? みんな、待てる?」 レオンが胸を張った。「待てる。昨日、一分できた」 クリスが頷く。「まてる。くち、しめる」


 テオくんは戸口で振り返り、声を落とした。「明日、灯路番所の地下の通り穴、点検が入るんだよね。配達札、落とさないようにする」 フィオナは頷くだけで返した。頷きは短いのに、確かに届く。


 戸鈴が鳴って、テオくんが帰る。工房の空気に、甘い匂いが少しだけ残った。


 梁の上でスノーが、羽を畳み、札入れ袋の口金と木皿の小箱を見下ろして嘴を鳴らした。


「口金の噛みを揃えろ。札を落とすな――明日の通り穴は、足元を見て行け」


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