3月4日(水): 縫い車の日
とある世界では今日は『糸を揃えて布を守る道具が、暮らしの遅れを減らした』日。 アルメリアでは『縫い車の日』として、手回しの縫い車を点検し、針と糸道を整える。速さではなく、同じ幅で戻す日だ。
朝の台所で、フィオナが桃色の布を畳み直していた。昨日の雛棚の裾に残った仮止めは、結び目の形のまま「縫い直し」を主張している。
「これ、直して返したい」 レオンが言うと、フィオナは短い札を一枚、布包みに差し込んだ。 『ももぬの ぬいなおし』
「札が短いほど、手が迷わない」
玄関の戸布が揺れ、戸鈴が鳴った。入ってきたのはドロテアだった。腕に糸巻きを抱え、もう片方の手で小さな木箱を支えている。
「朝のうちに頼みたい。縫い車が糸を噛む」 箱の中には、手回しの縫い車の針板と糸道の部品が、布にくるまれて入っていた。
アストルが手袋をはめる。「冬の間、油を替えたろ。春の粉が乗ると、粘りで噛む」
フィオナは桃布を一度だけ見て、頷いた。「縫い車が戻れば、布も戻る。順番は同じ」
レオンは布包みを胸の前に抱えたまま、机の端へ寄った。早く学校へ行かなきゃ、という気持ちが喉まで上がる。でも、ここで急ぐと、縫い目が増える。
梁の上でスノーが嘴を鳴らした。 「回す前に止めろ。噛んだまま回すと、癖が布に移る」
作業は「止める」から始まった。 アストルは縫い車を台から下ろさず、回し輪を指で軽く押さえ、動きを殺す。次に針板を外す。
白い粉が、溝の角に薄く溜まっていた。マナ・ポーレンだ。湿りを吸って、粒が硬くなる。
フィオナが刷毛で溝を掃き、蝋紙の上へ受けた。濡らさない。油は差さない。粉を呼ぶからだ。
「糸が切れる前に、糸が擦れる場所を消す」 彼女の言葉は短い。
次に、針。 ドロテアが持ってきた針は、先がほんの少しだけ曲がっていた。見た目は分からないのに、布は敏感に拾う。
「曲がった針は直さない。替える」 アストルが針箱から同じ太さの針を選び、差し替えた。
最後に、糸道。 糸が通る金具の縁に、硬い粒が一つ貼りついている。鑢で削れば段差が残り、次の糸が泣く。 アストルは布で粒を拭い落とし、木べらで角をならすだけに留めた。
「足すより、戻す」 レオンが小さく復唱した。
試し縫いは、捨て布で。 ドロテアが糸巻きを一つだけ替えた。色は桃布に近いが、少しだけ濃い。
「同じ色でも、今日の糸は乾きが強い。強い糸は、噛みやすい」
糸を掛け直し、手回しでゆっくり縫う。縫い目が一列に揃った。切れない。引っかからない。
ドロテアが息を吐いた。「戻った。……朝の縫い車の日に助かった」
レオンは桃布の包みを差し出した。札も一緒に。 ドロテアは頷き、布の裾を指で押さえて言った。「仮止めは上手い。ほどけない結びは正しい。でも、正しいまま置くと次が引っかかる。今日は縫い直す」
縫い車が回り、桃布の裾が静かに整った。速くはない。けれど止まらない。 レオンは布端を持ち、糸の張りが変わったらすぐ止める役を任された。止める役があると、手が先に出ない。
縫い終わると、ドロテアは糸巻きを一本、レオンへ渡した。 「学舎の雛棚に掛けるなら、予備がいる。明日、返して。返す札も付ける」
小さな札が添えられた。 『あした いと かえす』
レオンは鞄の内側へ糸巻きと札を入れ、口を整えた。
学舎へ行き、朝会のあと、先生に桃布を渡した。 「裾、縫い直しました」
先生は布の端を見て頷いた。「幅が揃ってる。これなら、今日の灯りがまっすぐ落ちる」
夕方、家へ戻るとフィオナが糸巻きの札を見て言った。「返す先が決まってる道具は迷子にならない。明日は忘れないで」
梁の上でスノーが、糸巻きと針箱の位置を見下ろして嘴を鳴らした。 「縫い目は急がせると切れる。粉の季節は掃いて替えて回せ――揃った幅だけが布を守る」




