3月5日(木): 珊瑚紐返しの日
とある世界では今日は『海の奥で育つ赤を思い、目印の色を大切にする』日。 アルメリアでは『珊瑚紐返しの日』として、借り物を返す箱に珊瑚色の紐を結び、迷いなく「戻す」手順を揃える。守りは増やすより、印を揃える。
朝、レオンは鞄の内側で糸巻きの丸さを確かめた。昨日、ドロテアから借りた糸巻きだ。添えられた札は短い。 『あした いと かえす』
フィオナが言って、鞄の口を指で整えた。「潰すと芯が歪む。返すときに、話まで曲がる」
ルミナは鍋をかき混ぜながら言葉を足した。「返すときは、相手の手に渡して終える。返した“場所”より、返した“相手”のほうが話が閉じるから」
クリスが口当て布の下で首を傾げる。「さくらの ふだ、みたい?」
「似てるけど、今日は色」レオンは答えた。「学舎で、返す箱の紐を替えるんだって」
梁の上でスノーが片目を開け、短く嘴を鳴らした。 「返すなら、丸いまま返せ。芯が歪むと約束も歪む」
初等学舎の朝会は、昨日に続いて「一行札」だった。先生は札箱を指で叩く。 「きょう したこと、を一行。長くなる前に終える」
レオンは書いた。 『いとを かえす』
朝会の終わりに、先生がもう一つ言った。 「今日はサンゴの日。落とし物箱の紐を替える。珊瑚色は夕方でも目に残るから、返す箱の印にする」
棚の上に細い珊瑚色の紐が置かれていた。けれど、紐を留める留め具が1つ足りない。
当番の子が眉を寄せた。「箱の型が違う。どこへ行ったんだろう」
レオンは喉が熱くなるのを感じた。視線が鞄へ寄りそうになるのも分かった。だから先に、先生の言葉を使う。 「見たことだけ」
先生は頷き、机に紙片を3枚置いた。「一行。見たことだけ。言い分はあと」
レオンは書いた。 『とめぐが 1こ たりない』
同級生は書いた。 『たなに ひもが ある』
当番の子は書いた。 『はこの うらが ぬれている』
先生は3枚を並べて読んだ。「留め具が足りない。紐はある。箱の裏が濡れている」
濡れた木は、ものを吸い込みやすい。先生が落とし物箱を持ち上げると、底板の隙間に小さな金具がひっかかっていた。雪解けの湿りで木が膨らみ、金具が動けなくなっていたのだ。
先生は布で包んで抜いた。引っ張らない。箱ごと割れば、紐も札も迷子になる。
留め具は戻った。空気も少しずつほどける。
同級生がレオンを見て言った。「……きょう、短く言えた」
レオンは頷いた。「うん。ありがとう」
落とし物箱の紐替えが始まった。珊瑚色の紐を取っ手に結び、箱を札箱の横へ戻す。夕方の薄い灯りでも、赤は迷いを減らす。
先生が言った。「借り物も、この箱で終わらせよう。印があると、口も短くなる」
休み時間、レオンは先生に一言だけ伝えた。 「放課後、糸巻きを返してきます」
先生は頷いた。「返したら、明日の札に書こう。『返した』で終わるのは、いい終わり方だ」
放課後、灯路はまだ湿りを引きずっていた。溝の縁は暗く、乾いた石と濡れた石が似た色をしている。レオンは鞄を胸の前で抱え、糸巻きが揺れない歩幅で歩く。
ドロテアの仕立て屋は、戸口の灯りが低い。布の匂いは外より先に落ち着いていた。
レオンは糸巻きと札を差し出し、言い切った。 「借りた糸、返します。助かりました」
ドロテアは糸巻きの芯を指で転がし、歪みがないのを確かめる。 「よし。丸いまま返ってきた。……サンゴの日に返すのは縁起がいい」
レオンは余計な説明を飲み込み、別の一行を置いた。 「学舎で、返す箱の紐を珊瑚色に替えました」
ドロテアが笑った。「色は嘘をつかないからね」 棚から空の糸芯を一つ出して手渡す。糸の巻き終わった丸い芯だ。
「明日、これを持っていきな。札を巻くのに便利だ。丸い芯は、手を次へ回す」
レオンは芯の輪郭を指でならし、鞄へ入れた。明日の札が、もう頭の中で回り始める。
帰り道、灯路の角の助け鈴の柱が一つだけ淡く光っていた。結び紐の位置が揃っていると、夜の目でも迷わない。レオンは学舎の落とし物箱の珊瑚紐を思い出し、足を止めずに頷いた。
家へ戻ると、フィオナが糸返却の札を見て言った。「返したなら、札は捨てない。次に迷いそうな人へ渡せる」 レオンは白紙の小札を一枚出し、明日のために一行だけ書いた。 『まるいしんを もっていく』 書き終えると、鞄の口を閉じ直した。
梁の上でスノーが、珊瑚色の紐と丸い芯の位置を見下ろして嘴を鳴らした。 「返却は色で迷わせるな。丸い芯は先に回る――約束は、戻してから次へ回せ」




