3月6日(金): 一周回覧の日
とある世界では今日は『遠い場所へ行って戻る道が、一本につながった』日。 アルメリアでは『一周回覧の日』として、学舎の短札が廊下を一周して、最後は札箱へ戻る。読む人を縛るためじゃない。迷わせないために、回して戻す。
朝、レオンは鞄の内側の札を指で確かめた。 『まるいしんを もっていく』 昨日の自分の字は短いのに、逃げない。
糸を巻き終えた空の芯は、鞄の底で丸く収まっている。丸いものは便利だけれど、縁が荒いと紙を削る。 フィオナが湯気の上に言った。「端、ならして。芯のささくれは、回覧の角を先に折る」 レオンは乾いた布を当てて、縁を一周だけ撫でた。ざらつきが落ちると、手の中の焦りも落ちる。
戸口の外は、雪解けの湿りがまだ残っていた。溝の縁は暗く、乾きと湿りが同じ色に寄っている。そこへマナ・ポーレンが薄く乗ると、足元の判断が遅くなる。 「走らないでね」ルミナが言う。 「ぼく、走らない。芯、揺れるから」 クリスが口当て布の下で首を傾けた。「まる、いたい?」 「勝たせると、痛い」レオンは昨日の教わり方を思い出して答えた。
梁の上でスノーが嘴を鳴らした。 「丸いもんは転ぶ前に止まれ。止め方を先に決めろ」
初等学舎の朝会で、先生が回覧筒を掲げた。筒は札を入れて廊下を回し、戻したら職員室へ返すための入れ物だ。 「今日は一周回覧。札を回して戻す。角が折れて迷子にならないように、筒に入れる前に芯に巻く」 教壇の横に、珊瑚色の細い紐が置かれていた。昨日、落とし物箱の印にした色だ。
先生は続ける。「芯が足りない。前の芯は湿りでふやけた。回覧の途中で紙が沈むと、読む人の手が迷う」 それから黒板に、回す順番を3行だけ書いた。 「1組→2組→3組。戻ったら札箱。順番を変えない。順番が変わると、戻り先も変わるから」
レオンは鞄の底の丸さを思い出し、手を挙げた。「先生、芯、あります。今日だけ貸します」 先生は頷いた。「助かる。名前は書かない。印だけ付けよう」
先生は札を芯に巻き、珊瑚紐を紙の上で一度だけ結んだ。 「結び目が始まりの印。強く締めない。締めると紙が泣く」 先生の指は、結び目の“形”だけを作って、力は残さなかった。
回覧する札は短い。『廊下は走らない』『溝はまたがない』『口当て布を忘れない』。 レオンはその札を受け取り、きれいに見せたくて、巻きを少しだけ強く揃えた。揃えたつもりで、締めてしまった。
筒は廊下へ出た。回覧係が両手で抱え、角をぶつけない歩幅で進む。 レオンは席で、筒が遠ざかる音の間を数えてしまう。数えるほど、戻りが遅く感じる。
しばらくして、筒が戻った。 先生が蓋を開け、芯を抜く。珊瑚紐の結び目のところで、紙が細く裂けていた。結び目が食い込んだ跡だ。 教室の空気が、ほんの少しだけ硬くなる。視線が、レオンに寄る。
同級生が小さく言った。「結び目、痛かったのかな」 別の子が言う。「巻きが固いと、そこから裂けるって、昨日の布みたい」 言葉が増える前に、先生が机に紙片を3枚置いた。 「見たことだけ。一行。言い分はあと」
レオンは書いた。 『ぼくが きつく まいた』 同級生は書いた。 『むすびめが かみに のっていた』 回覧係の子は書いた。 『もどったとき きれめが あった』
先生が3枚を並べて読んだ。「巻きがきつい。結び目が紙に乗っている。戻ったとき切れ目がある」 先生は頷く。「原因はここまで。次は戻す」
レオンは紙片を先生に渡し、言葉も短く置いた。 「ごめんなさい。直します」
先生は首を横に振った。「直すのは一緒に。謝るのは短くていい。戻すのが今日の練習だから」 結び目をほどき、紐は紙の上から外す。次は紐を芯の端の、紙が乗らない場所で結ぶ。紙は芯に沿わせるだけで、押しつけない。
裂けた裏には薄い紙を当てた。糊は少しだけ。多いと波打って、筒の中で紙が暴れる。 先生は蝋紙を一枚敷き、その上から板で軽く押さえた。 「乾くまで重ねない。重ねると、乾きじゃなく癖が移る」
乾いたころ、もう一度だけ回覧した。 今度は裂けない。戻ってきたら、先生が珊瑚紐をほどき、結び目を指でなぞって終わりを作った。 「一周して、戻ったね」
休み時間、同級生が芯を手に取らずに見て言った。「それ、どこで手に入れた?」 「仕立て屋さん。札を巻くのにって」レオンは答える。「明日、月読み文庫に地図巻き筒があるって聞いた。比べてみたい」 同級生が少し笑った。「巻くのが上手い人は、広げるのも上手いってね」
帰り道、溝の縁はまだ暗く、石の乾きと湿りが見分けにくい色をしていた。それでも今日は迷わなかった。戻す場所が決まっていて、言葉が短く終わったからだ。
梁の上でスノーが、鞄の底の丸い影を見下ろして嘴を鳴らした。 「遠くへ行く道は長いが、迷うのは締め目だ。締め目をほどけ――回った札は、戻ってこそ役に立つ」




