9月1日(火):戻り路合わせの日
とある世界では今日は、もしものときの備えを確かめる日。アルメリアでは『戻り路合わせの日』として、いつもの行き先から家へ戻る道を、目印や助けを呼べる場所と一緒に確かめる。近い道を探すのではなく、「自分が確かめて歩ける道」を思い出す日だった。
朝、フレイメル家の玄関には三つの荷物が並んだ。
フィオナの学院道具。レオンの鞄。クリスの登園袋。
昨日まで夏休みの支度だったものが、今日はそれぞれの肩にかかる。
「ほんとに九月だ」
レオンが鞄の紐を引いた。
フィオナも学院道具を抱え直す。
「でも、暑さは昨日とあんまり変わらないね」
戸を開けると、朝の灯路にはもう白い日差しが落ちていた。クリスはルミナと手をつなぎ、登園袋を揺らさないよう歩き出す。
「いって、かえる」
「そう。帰ったら、どこを通ったか教えてね」
ルミナが答えた。
昨夜、スノーが言ったことをレオンは覚えていた。
持ち物より先に、行って戻る道を見る。
だから朝は札を増やさなかった。いつもの角を曲がり、助け鈴の柱を見て、それぞれの一日へ向かった。
夜。
全員が帰り、夕食の皿が片づいたころ、グレゴールが地下室から平たい木箱を持ってきた。
「今日なら、これが使える」
アストルが箱を見る。
「父さん。昨日も同じ顔で研究道具を出したよな」
「昨日は水気。今日は道だ」
蓋の中には、細かな穴の並んだ盤と、赤、青、黄の三本の糸が収まっていた。盤の端には小さな巻き軸と、真鍮の重りが三つ付いている。
「道寄せ盤。昔、地下の魔脈を測るとき、二点の間で一番短い向きを探すために使った」
フィオナが盤を見た。
「人が歩く道を選ぶ道具ではないんですね」
「そのままでは、な」
グレゴールの返事に、アストルが笑った。
盤の上へ、家を示す木栓を一本置く。次に王立魔法学院分校、初等学舎、星粒ほいくえんの位置を、簡単な見取り図に合わせて置いた。
フィオナは赤。レオンは青。クリスは黄色。
グレゴールが盤の縁へ指を添える。
淡い光が走った瞬間、三本の糸がぴん、と伸びた。
家から三つの行き先へ、ほとんど一直線。
道を外れ、建物の上を横切り、塀まで突き抜けている。
クリスが目を丸くした。
「おうち、ぬけた」
「近いけど、歩けない」
レオンが言う。
グレゴールは眼鏡を押し上げた。
「道具としては正しい。二点の最短を出している」
「でも、今日知りたいことには合ってない」
フィオナは糸へ触れずに眺めた。
「壊れてるかどうかより、何を良しとして作られた道具か、ですね」
グレゴールの眉が少し上がる。
「うむ。そこからだ」
まず魔法を止める。
三本の糸を全部巻き戻す。
アストルが盤を押さえ、グレゴールが側面の留め具を外した。子どもたちは手を出さず、外した部品を置く順番だけを見る。
中から出てきたのは、糸を直線へ引く小さな重りだった。
「これが最短寄せだ」
重りを三つとも部品皿へ移す。元へ戻せるよう左から順に並べる。
フィオナは乾いた刷毛で盤の溝の埃を払い、レオンは外した部品の数を声に出して確認した。
「重り、三つ。留め具、三つ」
クリスも続ける。
「なくさない」
再び糸を出してみる。
今度は一直線には飛ばなかった。
けれど、赤い糸も青い糸も黄色い糸も、盤へ置くそばから中央へ細かく寄ろうと震える。
「まだ、みちがまっすぐになりたい」
クリスには、三本が薄い光の川みたいに見えているらしい。
フィオナは頷いた。
「重りだけが原因じゃなかった」
グレゴールが銀糸の端を確かめた。
「長く最短寄せに使ったせいで、糸のマナまで引かれる癖を持っている。これは外して拭くだけでは戻らん」
「じゃあ、ここで魔法?」
レオンが聞く。
「ここで、だ。道を選ばせるためではない。余計に引かれる暴れだけを整える」
グレゴールは三本を盤の上へ緩く置き、弱い整えの魔法をかけた。
光は道を描かなかった。
震えていた糸が、少しずつその場へ落ち着いていく。
一度止める。
レオンが盤を見て言った。
「まだ決めない。もう一回出してみよう」
糸を巻き戻し、再び同じ長さだけ出す。
今度は中央へ引かれない。
「よし。ここから人の道を置ける」
フィオナが言った。
朝と帰りに実際に通った場所を、家族で一つずつ思い出す。
いつもの角。
広い通り。
助け鈴の柱。
建物の脇で見通しが変わるところ。
分かる場所だけ、小さな木栓を立てた。
助け鈴の柱には触って分かる三角小片を置く。これは目印にするだけで、もちろん紐は引かない。
レオンが盤の細い横道を指した。
「ここを通ったら、ぼくの学舎からは近そう」
フィオナはすぐ否定せずに聞いた。
「今日、そこを通った?」
「通ってない」
「途中の目印は分かる?」
「分からない」
レオンは指を引っ込めた。
「じゃあ、近そう、まで。戻れる道とは決めない」
「うん」
八月の道見直しの日には、足跡だけを見て危ないと早合点した。今日は、近く見える線だけで良い道だと決めない。
同じ失敗へ戻るのではなく、前に覚えた止まり方を、別の場面で使えた。
三本の糸を、朝と夕方に確かめた木栓の外側へ沿わせていく。
赤は学院へ。
青は初等学舎へ。
黄色は、ルミナと歩く星粒ほいくえんへの道。
途中まで三色が重なり、それから別れる。
クリスが嬉しそうに言った。
「わたしには、みっつのひかるみち」
少し考えてから続ける。
「でも、わたしにそうみえる。これで、ほんとのみちはきめない」
「その言い方でいい」
グレゴールが答えた。
最後に、もう一度だけ整えの魔法を使う。
今度も糸の行き先には触れない。人が置いた曲がり方を残したまま、浮きと細かな震えだけを鎮める。
三本の糸は、木栓に沿って静かになった。
そこで終わりにせず、光を消す。
糸を全部巻き戻す。
木栓だけを残し、もう一度、自分の帰り道を置き直す。
フィオナ、レオン、クリスとルミナ。
三組とも、同じ目印を拾えた。
ルミナが言う。
「これは『何があっても安全な道』の札じゃないわ。今日、自分たちが確かめて歩いた戻り道。通れないことがあれば、勝手に知らない道へ入らず、そこで次を確かめる」
レオンが頷く。
「短い、じゃなくて、知ってる。知ってても、その日に見る」
「それなら忘れにくいな」
アストルが言った。
新しい大札は作らなかった。
控え紙には一行だけ。
『近さより、確かめた目印。分からない道は、分からないまま。』
道寄せ盤は研究道具なので玄関には置かない。三本の糸を巻き、木栓を数え、外した重りも順番どおり箱へ戻す。今日の使い方を書いた控え紙だけ、蓋の内側へ挟んだ。
フィオナが白紙を戻そうと工房の紙箱を開くと、上段の麦穂印の留め紙が目に入った。
一枚だけ。
指は伸ばさず、箱を静かに閉じた。
外にはまだ夏の温度が残っている。
工房の部品棚は夏位置のまま。入口の夏換気札も四行のまま。
暦が九月になっても、暮らしまで一晩で秋にはならない。
レオンは明日の鞄を棚へ戻した。
「明日も同じ道?」
「同じとは限らないよ」
フィオナが言う。
レオンはすぐ頷いた。
「じゃあ、朝に見てから」
クリスも登園袋を置く。
「みて、いく。みて、かえる」
梁の上でスノーが片翼を畳み、三つの荷物と閉じた研究箱を見下ろした。
「近道に命を預けるな。知ってる道ほど、その日の角を見て歩け――明日は数字が並んでも、当たりだと決めつけるんじゃねえぞ」




