8月31日(月):夏菜見の日
とある世界では今日は『野菜のよさを、食べる前にもう一度見つける』日。アルメリアでは『夏菜見の日』として、夏の終わりに残った野菜を、色や大きさだけで決めつけず、手触りや香り、水気の違いを見て食卓へ戻す日だった。
夕方まで石畳に残っていた熱がゆっくりほどけ、灯路が淡く光り始めたころ。フレイメル家の台所には、昨日から気になっていた野菜籠が置かれていた。
赤いトマト。緑のきゅうり。つやのある茄子。小ぶりの玉ねぎ。
そして、その横には見慣れない真鍮の枠がある。
「おじいちゃん、ほんとに出したんだ」
レオンが言うと、グレゴールは眼鏡を押し上げた。
「昨日は『実験なら明日』と言われた。今日は、その明日だ」
「そういうところだけ律儀なんだよな、父さん」
アストルが笑う。
真鍮の枠には三つの小さな窓が並び、その中央に細い銀糸が垂れていた。野菜へ触れず、上からかざして使う古い研究道具だという。
「名は『水気見枠』。表面から逃げるわずかな水気を、弱い整えの魔法で見えやすくする。だが、食べられるかどうかを決める道具ではないぞ」
グレゴールが先に言った。
ルミナも続ける。
「傷みや匂いは、人の目と鼻で確認する。今日食べるものだから、そこは別にしましょう」
「おやさいの、げんきみる?」
クリスが首を傾げる。
「元気、というより……水の動きだな」
「みずの、みち」
「うむ。それなら近い」
フィオナは笑いながら、まず籠の中身を一つずつ見ることにした。
トマトは割れていない。きゅうりは端まで張りがある。茄子の皮にも大きな傷はない。玉ねぎも柔らかく崩れてはいない。ルミナが匂いも確認し、今日の夕食に使う分として問題ないと判断する。
「じゃあ、次に道具を見る」
フィオナが言った。
「野菜より先に?」
レオンが聞く。
「昨日の高窓と同じ。見る相手だけじゃなくて、見る側の条件も揃ってるか確かめたい」
グレゴールは少しだけ口をへの字にしたが、反対はしなかった。
台所の卓を乾いた布で拭き、水気見枠を中央へ置く。野菜は清潔な皿に載せたまま、その下へ順番に差し入れる。道具と食べ物は触れない。
最初は、同じくらいの大きさのトマトを三つ。
グレゴールが指を枠の端へ添えた。
「弱くかけるぞ」
三つの窓に、淡い青白い筋が浮いた。銀糸の揺れがゆっくり収まり、トマトの上に薄い輪が見える。
「きれい」
クリスの目が丸くなる。
ところが、少し待つと三つの輪がそろって左へ寄った。
レオンがすぐに言う。
「三つとも左だ」
フィオナは答えず、枠を見た。
同じトマトでも差はあるはずなのに、寄り方だけが妙に揃っている。
グレゴールが顎へ手を当てる。
「左側の空気が――」
「まだ決めない方がいいです」
フィオナが止めた。
「場所を入れ替えてみます」
トマトを皿ごと入れ替える。
もう一度。
やはり三つとも左へ寄る。
クリスが枠を覗き込みかけ、ルミナに肩を支えられて止まった。
「わたしには、ひだりに青いみち。でも、これで決めない」
「うん。じゃあ次、何を見る?」
レオンが聞く。
クリスは少し考えた。
「わく?」
「正解を言い切らずに、見るところを増やす。いいね」
フィオナは野菜を全部離した。
今度は三つの窓の下へ、同じ大きさの浅いガラス皿を置き、それぞれ同じ量の水を落とす。食べ物を使わない、道具だけの確認だ。
魔法はまだ使わない。
静まった水面を見ると、三つともほんのわずかに左へ寄っている。
「枠というより、台ごと傾いてるか?」
アストルがしゃがんだ。
水気見枠の脚は三つ。裏返さず、端を持ち上げて下を覗くと、左後ろの脚だけ当て布が薄く潰れていた。
「箱の中で長く押されてたな」
グレゴールも覗く。
「地下室では、この側へ記録箱を重ねていたかもしれん」
「じゃあ、原因はこれ?」
レオンが聞いた。
「候補の一つ」
フィオナが答える。
「直して、同じ試験をしてから」
アストルが工房から厚みの違う薄木片を数枚持ってきた。切断はせず、もともと調整用にある小片を使う。
一枚を低い脚の下へ仮置きする。
まだ少し左。
もう一枚重ねる。
三つのガラス皿の水面が、目で追える範囲では偏らなくなった。
だが、その状態でグレゴールが整えの魔法をかけると、今度は銀糸だけが細かく震え続けた。
「おじいちゃん、まだ、ぶるぶる」
クリスが指さす。
「水平だけではなかったか」
グレゴールは素直に言った。
フィオナは枠へ顔を近づけず、横から銀糸の根元を見た。糸を留める小さな輪が、保管癖で片側へ寄っている。
「ここ、触っていい?」
「そこはわしがやる」
グレゴールが留め輪をいったん緩め、中央へ戻す。アストルが枠を支え、フィオナは正面から位置を見る。レオンは右、クリスは少し離れた左から見た。
「ぼくからは中央」
「わたしも、まんなか」
「私からも中央です」
三方向から確認して、留め輪を締め直す。
それでも銀糸には、ごく細かな震えが残った。
そこで初めて、グレゴールがもう一度指を添えた。
「今度は、この糸の暴れだけを整える」
淡い光が一度だけ銀糸を包む。
震えが小さくなる。
止めてしまうのではない。空気の動きへ反応できる程度を残し、余計な揺れだけを静める。
「これなら試せる」
フィオナが言った。
同じ量の水で一回目。
少し待って二回目。
卓の位置を変えず、皿だけを入れ替えて三回目。
どの窓でも、一方向だけへ寄る癖は出なかった。
「やっと野菜へ戻れるな」
アストルが言う。
今度は、トマトを三つ。
場所を入れ替えても、光の輪はそれぞれ少しずつ違い、一方向へ揃って流れない。
そのあとで、トマト、きゅうり、茄子を一つずつ置いた。
トマトの光は丸く近くへまとまり、きゅうりは細長く、茄子は弱い輪がゆっくり続いた。
クリスには、赤と緑と紫の道が重なって見えているらしい。
「わたしには、さんぼんのみち。ちがう。でも、これで『いいおやさい』はきめない」
グレゴールが目を細めた。
「うむ。わしの道具より、よほど扱いが慎重だ」
「おじいちゃんも、さっき決めそうだった」
レオンが言う。
「研究者は仮説を立てるものだ」
「外れたら?」
「直す」
今度は皆が笑った。
グレゴールは控え紙へ一行だけ書いた。
『先に道具の偏りを見る。同じ物で場所を比べてから、違う物を見る。』
レオンが覗く。
「家の札にする?」
「いや。研究箱の中だけでいい。何でも家じゅうへ貼ればよいわけではない」
水気見枠は乾いた布で拭き、当て板と一緒に研究箱へ戻した。潰れた古い当て布は、比較用として小袋へ残す。
実験はそこで終わり。
アストルが包丁を持ち、ルミナと一緒に夕食の支度へ移った。トマトは冷たい和え物に。きゅうりは薄く切って塩をなじませ、茄子と玉ねぎは火を通す。
子どもたちは皿を並べ、水差しを運ぶ。
居間の端には、明日から使うフィオナの学院道具、レオンの鞄、クリスの登園袋が揃っていた。
けれど、食卓の真ん中にあるのは明日の持ち物ではない。
今日食べる、夏の野菜だった。
「夏休み、最後のごはんだ」
レオンが言う。
「さいご?」
クリスが少しだけ眉を下げる。
ルミナが茄子の皿を置いた。
「休みが終わっても、夏が今夜ぜんぶ消えるわけじゃないわ」
フィオナは窓の外を見た。
灯路の上を、昨日より穏やかな風が通っている。
工房の部品棚は夏位置のまま。入口の夏換気札も四行のまま。
変わるものを、日付が変わるからと急いで片づけなくていい。
今の状態を見て、必要になったときに少しずつ変える。
食後、レオンは鞄の口を一度だけ確かめ、すぐ閉じた。
クリスも登園袋を背負ってみて、棚へ戻す。
フィオナは学院の紙束を揃えたあと、それ以上は触らなかった。
夏休みの最後の夜には、最後の夜の分だけの時間が残っていた。
梁の上でスノーが片翼をたたみ、空になった野菜籠と、居間に並ぶ三つの荷物を順に見た。
「同じ場所に置いたって、同じもんになるわけじゃねえ。違いを残して比べろ――明日は荷物の数より先に、行って戻る道を見とけ」




