8月30日(日):高見測りの日
とある世界では今日は『高い場所から空や風を見つめ、同じ場所で変化を見続けることを思う』日。アルメリアでは『高見測りの日』として、低いところと目の高さ、高いところを同じ時刻に見比べ、風の通り方を確かめる日だった。
日が沈み、石畳の灯路が淡く浮かび始めたころ。
前日に町映し灯の運搬箱を返し終えた工房には、いつもの部品棚と作業卓だけが残っていた。
西側の部品棚は、壁から手の幅ほど離した「夏位置」のままだ。
8月24日に見つけた西壁の残り熱は、一週間前ほど強くはない。それでも、昼の暑さをすっかり忘れたような冷たさには戻っていなかった。
フィオナが手の甲を壁へ近づける。
「まだ少しぬるい」
「外は?」
ルミナが東寄りの戸を少し開け、戸口で立ち止まった。
「外の方が涼しいわ。風もある」
レオンが工房入口の札を読み上げる。
「『日暮れ後、外の涼しさを確かめる』。次が、『軽い物をしまってから風を通す』」
そこで自分から作業卓を見回した。
紙片は紙箱へ。軽い木屑は小籠へ。部品盆は板掛けの近くへ戻す。
クリスも床に落ちていた小さな端布を拾い、布箱へ入れた。
「かるいの、しまった」
「ありがとう。じゃあ3行目」
フィオナが札を見る。
「『西壁の前をふさがない』」
棚は夏位置にある。床の位置札もずれていない。
ここまでは、この一週間で家族が覚えた手順だった。
アストルが高窓を開けようとして、留め金に手を掛ける。
「じゃあ、いつもの――」
高窓が少し開いたところで、窓際に掛かっていた細い紙札がぱたぱたと大きく揺れた。
アストルの手が止まる。
「おっと」
戸口にいるルミナの裾は、それほど動いていない。
レオンが見上げた。
「下はそんなに強くないのに」
クリスも、高窓と戸口を交互に見る。
「うえ、いっぱい。した、ちょっと」
フィオナはすぐには答えなかった。
同じ家の中でも高さが違えば、風の動きが違って見える。
けれど、紙札が一度大きく揺れただけで、高窓の風はいつも強いと決めることもできない。
グレゴールが眼鏡を押し上げた。
「今日はせっかくの高見測りだ。順番に開けて感想を言うより、同じ時刻に見た方がよかろう」
「同じ時刻」
フィオナが繰り返す。
「それなら、同じ物を3か所に置こう」
布箱から、幅と長さのほぼ同じ細布を3本選んだ。
1本目は戸口の内側。
2本目は作業卓の端。
3本目は高窓の枠。
高窓へ取り付けるのはアストルが行い、子どもたちは床から離れない。
3本とも同じ向きに垂らし、同じ木挟みで留める。
「これで風の速さが数字で分かるわけじゃないよ」
フィオナが言った。
「でも、同じ布なら、どこが大きく動くか、どちらへ傾くかは比べやすい」
レオンは控え紙を持った。
「ぼく、書く。でも先にみんなを見る」
すぐに鉛筆を動かさず、3本の布へ目を向ける。
クリスが戸口の布を見た。
「した、なかにはいる」
作業卓の布を見る。
「まんなかも、なか」
最後に高窓。
「うえは、そと。……でも、ときどき、ぐらぐら」
「うん」
フィオナも同じ動きを確かめた。
戸口の布は、ゆっくり工房の中へ傾いている。
作業卓の布も内側へ揺れるが、動きは小さい。
高窓の布は外へ伸びることが多いものの、ときおり大きく乱れた。
「今のを1回目にしよう」
レオンが初めて記録する。
戸口――内。
作業卓――弱く内。
高窓――外が多い。揺れ大。
グレゴールが言った。
「一度で決めるな」
「分かってる。待つ」
レオンは鉛筆を置いた。
少し時間を空けて、2回目。
今度も戸口と作業卓は内側へ、高窓は外側へ傾いた。
ところが、屋根の向こうを風が渡った直後だけ、高窓の布が大きく踊り、一瞬、内側へ返る。
アストルが眉を上げた。
「毎日、同じだけ開けりゃいいってわけじゃなさそうだな」
「今夜の外の風が、いつもと同じとは限らないものね」
ルミナが言う。
フィオナは高窓を見上げた。
「高いところから空気が抜けてるようには見える。でも、外の風が強くなると動き方も変わる」
「なら、窓を閉める?」
レオンが聞く。
「それもまだ早い」
フィオナは首を振った。
「開けるか閉めるかの2つじゃなくて、開け幅を変えてみよう」
アストルが高窓をいったん狭める。
大きく開いていた隙間を半分ほどにした。
そのまま家族は少し待った。
3回目。
戸口の布は穏やかに内側へ。
作業卓も弱く内側へ。
高窓の布は外側へ小さく傾き、さっきまでの大きな乱れは減っている。
作業卓の控え紙も浮かない。
高窓の留め金も鳴らない。
ルミナが工房の中央で頬に手を当てた。
「風は止まってないわ」
アストルも西壁の近くまで歩き、棚と壁の間を確かめる。
「こっちにも、ちゃんと通ってる」
フィオナは西壁へもう一度手の甲を近づけた。
すぐに冷えたわけではない。
けれど、最初より工房の空気がこもっている感じは弱い。
「今日なら、このくらい」
レオンが高窓を指した。
それから、自分で言い直した。
「……今日なら、だね」
アストルが笑った。
「そういうこと」
8月24日に棚を動かしたときは、熱の逃げ道を作ればよかった。
けれど、逃げ道そのものも、毎晩同じ条件ではない。
風が弱い夜と強い夜。
外が早く涼しくなる夜と、なかなか熱の引かない夜。
同じ夏でも、日が変われば見るところが少しずつ変わる。
フィオナは入口の夏換気札を外し、作業卓へ置いた。
今ある3行は消さない。
その下へ、4行目だけを足す。
『戸と高窓の開け幅は、その夜の風を見て決める。』
レオンが横から読んだ。
「数字を書かないんだ」
「うん。『ここまで開ける』って決めちゃったら、明日の風が違ったとき困るから」
グレゴールが頷く。
「手順は残す。条件はその都度見る。悪くない」
クリスが札の最後の行を指で追った。
「きょうのかぜ、きょうみる」
「そうね」
ルミナが笑う。
「明日の風は、明日見る」
札を入口へ戻した。
4行になっても、やることが急に増えたわけではない。
外を見る。
軽い物を片づける。
壁の前を空ける。
そして、風を見て開け方を決める。
一週間かけて家族がしてきたことに、最後の順番が加わっただけだった。
確認に使った3本の細布は外し、布箱へ戻す。
レオンの控え紙も、今夜だけの記録として札入れへしまう。
高窓は眠る前に閉めるため、今は狭く開けたままにした。
ルミナが水差しを持ってくる。
「終わった人から飲んで。夜になっても、まだ夏なんだから」
クリスは両手で杯を持ち、一口飲んでから聞いた。
「なつ、もうおわり?」
「8月は明日まで」
レオンが答えて、少し考える。
「夏休みも明日まで。でも明日も休み」
「そう。9月1日から2学期」
フィオナが言った。
居間には、フィオナの学院の道具と、レオンの初等学舎の鞄が少しずつ揃えられている。
クリスの登園袋も、棚の端に置かれていた。
けれど、明日それを持って出るわけではない。
夏休みは、あと1日残っている。
アストルが工房の戸を少し狭めながら言った。
「休みの最後の日まで、朝から準備ばっかりにはしないぞ」
「ほんと?」
レオンの顔が明るくなる。
「ほんと。必要な分だけだ」
台所へ戻る途中、フィオナは野菜籠に目を留めた。
夏によく食べた赤い野菜と緑の野菜が、まだいくつか残っている。
同じものを、グレゴールも見ていた。
しかも、ただ夕食の材料を見る顔ではない。
「明日はあれを使って、少し――」
「父さん」
アストルが先に言った。
グレゴールが口を閉じる。
「実験なら明日」
「今も明日の話をしておる」
「だから明日」
ルミナが笑い、フィオナもつられて笑った。
工房では、狭くした高窓から夜風が静かに抜けている。
夏はまだ残っている。
けれど、残る熱を見つけるだけだった一週間の初めとは違う。
今のフレイメル家は、その夜ごとの違いを見て、暮らしの方を少しずつ合わせられる。
梁の上でスノーが羽を畳み、4行になった札を見下ろした。
「昨日と同じ風を待つな。今日の戸口と今日の高窓を見りゃいい――家ってのは、季節に勝つんじゃなく、置いてかれねえように暮らすもんだ」




