8月29日(土):古印守りの日
とある世界では今日は『昔から受け継がれてきた建物や道具、技や記録を、古いからというだけで失わず、次へ残していくことを考える』日。アルメリアでは『古印守りの日』として、古い道具へ手を入れる前に、落としてよい汚れと、残すべき傷や印を見分ける日だった。
朝の広場には、昨夜の町映しで動かした腰掛けが、まだ東寄りに並んでいた。
西側の石壁は夜のうちに冷えている。フィオナが手の甲を近づけても、昨日のようなぬるさは返ってこなかった。
「今日は戻せるね」
レオンが言う。
商店街の催し係とアストルが腰掛けを一つずつ元の位置へ運ぶ。レオンは『朝戻し』の札を回収し、クリスは座布の数を数えた。
「ひとつ、ふたつ……ぜんぶ、ある」
ルミナは腰掛けを戻したあとの通り道を歩き、通行の幅が残っていることを確かめる。
昨夜の催しは、これで片づいた。
ただ一つ、まだ確かめていないものがある。
町映し灯の運搬箱。その底に近い側面へ残っていた、小さな焼き印だった。
箱は広場の屋根陰へ出されていた。
丸い線。その内側に短い3本の筋。さらに下へ、擦れて途切れた細い線がある。
昨夜は暗く、汚れなのか印なのか判断できなかったため、磨かずに残してある。
催し係が布を手にした。
「朝なら、もう見分けられますか?」
「まず見るだけだ」
グレゴールが眼鏡を押し上げる。
クリスも近くへ寄るが、ルミナに言われた場所で足を止めた。
「さわらない。みるだけ」
フィオナは日の当たる向きを変えながら、木肌を観察した。
黒い線は表面へ付着しているのではない。
浅く焦がして、木そのものへ形を残してある。
「汚れじゃないね」
レオンも横から見る。
「ばらばらに黒くなってない。ちゃんと形になってる」
アストルが頷いた。
「なら、紙やすりは絶対なし。濡らしてこするのもやめよう」
クリスがグレゴールを見上げる。
「だれの、しるし?」
「分からん」
グレゴールは迷わず答えた。
「昔の作り手かもしれん。修理した職人かもしれん。催しを管理した組の印かもしれん。今ここで分かるのは、“意図して付けられた古い印らしい”というところまでだ」
「おじいちゃんも、しらないこと、ある」
「山ほどある」
「よかった」
「何がだ」
レオンが笑いをこらえた。
焼き印は、そのまま残すことになった。
けれど、箱を調べていると別の傷みも見つかった。
底板の四隅が白っぽく擦れ、一か所だけ細いささくれが持ち上がっている。
運搬のたび、石畳や倉の床へ直接置かれてきた跡だった。
フィオナがしゃがんで見る。
「こっちは、このまま使い続けたら広がりそう」
「古いものだから何もしない、も違うんだな」
レオンが言う。
「そうだな」
アストルは底へ触れずに答えた。
「残す傷と、これ以上増やさない傷は分けて考える」
昼の暑さが強くなる前に家へ戻り、運搬箱は日陰で催し係が預かることになった。
作業の続きは、涼しくなる夕方からだ。
日が沈んだあと、空になった運搬箱が小さな荷車でフレイメル魔具修理店へ運ばれてきた。
工房では、西壁から離した部品棚の後ろを夜風が抜けている。
アストルは作業卓へ乾いた敷布を広げた。
「今日は“新品にする”仕事じゃないぞ。今ある箱を、これ以上傷めず使えるようにする」
最初は掃除からだった。
乾いた短い刷毛で、木目に沿って埃を払う。
焼き印の周りは強くこすらない。
落ちる埃だけを落とし、木に残る黒さは追わない。
フィオナは焼き印の形を紙へ写した。
こすり取りではなく、目で見た線だけを鉛筆で描く。
見えなくなっている部分は足さない。
レオンが紙を覗く。
「下の線、途中で切れてる」
「だから、途中まで」
「丸だったかもしれないよ?」
「かもしれないものは描かない」
レオンは頷いた。
紙の端には『古い焼き印』とだけ書いた。
誰の印か分からない以上、勝手な名前は付けない。
次に底を見る。
飛び出したささくれは、手や布を引っ掛けるおそれがあるため、アストルが小刀で浮いた先端だけを整えた。
底板全体を平らに削り直すことはしない。
「これで箱そのものを削るのは終わり」
アストルは道具を置いた。
「次は箱じゃなく、置く場所の方を作る」
用意したのは、運搬箱より一回り大きな平たい板だった。
箱本体には釘もねじも入れない。
板の四辺へ低い木止めを付け、箱をその内側へ置ける浅い載せ台にする。
「はこの、くつ?」
クリスが尋ねる。
「近いね」
フィオナが答える。
「床にじかに当たらないようにする台」
「じゃあ、はこは、そのまま?」
「そのまま」
板材を切る作業と木止めの固定はアストルが行う。
フィオナは切り終えた角を紙やすりで丸めた。
レオンは運搬箱の外寸と載せ台の内側を見比べる。
「ぴったりじゃなくて、少し空いてる方がいいよね」
「押し込まないためにな」
アストルが答える。
一度目の仮置き。
箱は入ったが、右奥だけ木止めとの間が狭い。
レオンが横から確認した。
「ここ、ほとんど隙間ない」
「入ったから完成、にはしない」
アストルは箱を持ち上げ、木止めを一度外した。
ほんの少し外側へ付け直す。
二度目。
今度は四方にわずかな余裕がある。
箱を押し込まなくても、まっすぐ下ろせる。
左右へ軽く動かしても、大きく滑らない。
ルミナが底を確認した。
「新しい擦れもないわね」
最後に、使い方を決める。
載せ台を先に置く。
運搬箱は本来の取っ手を持って、その上へ下ろす。
移動するときは、箱を載せたまま台を床へ引きずらない。
焼き印は磨かない。
レオンが3つだけ短い札へ書いた。
『台を先に置く』
『箱は取っ手で持つ』
『古い焼き印は磨かない』
焼き印を描いた記録紙は、扱い方の札とは別の薄い紙袋へ入れた。
日常の手順と、古い印の記録を混ぜないためだ。
催し係が載せ台へ収まった運搬箱を眺める。
「見た目は、昨日とほとんど変わりませんね」
「それでいい」
アストルが笑った。
新品のようにはなっていない。
角の擦れも、長く使われた木の色も残っている。
古い焼き印も薄いままだ。
けれど、これから底へ増えるはずだった傷は減らせる。
次に扱う人へ、消してはいけない印があることも伝えられる。
クリスが箱を見上げた。
「きれいに、しなかった」
ルミナが微笑む。
「きれいにすることと、何でも消すことは違うからね」
フィオナは薄い焼き印へもう一度目を向けた。
誰が付けたのかは、今日も分からない。
分からないまま残しておけば、いつか知っている人へ渡せる。
消してしまえば、その問いそのものがなくなる。
片づけのころ、高窓に下げた風見札が長く傾いた。
レオンが見上げる。
「下の戸口より、高い窓の方が風が強い」
グレゴールも目を上げた。
「同じ町でも、高さが変われば風の見え方は変わる」
梁にいたスノーは、さらに高い窓枠へ飛び移り、夜の屋根の向こうを眺めた。
明日は、地面に残るものだけでなく、高いところから今の空を見る日になりそうだった。
「古いもんを守るってのは、触らねえことじゃない。消しちゃならねえ跡を残して、増やさなくていい傷を止めることだ――明日は上ばっか見て足元を忘れるなよ」




