8月28日(金):町映しの日
とある世界では今日は『街なかの大きな画面を、大勢が同じ刻に囲んで楽しむ暮らしが広がり始めた』日。アルメリアでは『町映しの日』として、広場の白幕へ光絵を映し、家や店の違いを越えて同じ物語を囲む日だった。
日が沈み、石畳の照り返しがようやく弱まったころ、フレイメル家は町の広場へ向かった。
夏休みも残り少ない。
それでも昼の暑さはまだ真夏のままで、ルミナは家を出る前に全員へ水を飲ませた。
「帰りも歩くんだから、見る前に飲んでおくのよ」
「のんだ。まだ、ある」
クリスは水筒を両手で持ち上げた。
広場には、すでに白い大幕が張られていた。
向かい側に置かれているのは、古い木箱ほどの大きさをした町映し灯だ。薄い絵板を順番に送り、灯りを通して大幕へ大きく映す。今夜は商店街の催し係が横で物語を読み、町の人たちが同じ絵を眺めることになっている。
町映し灯の周りには細い縄が張られ、道具へ近づかないための境が作ってあった。
「おっきい、え」
クリスが大幕を見上げる。
「始まったら座って見るんだよ」
レオンは幕より先に足元と縄の位置を見た。
そのとき、催し係が試しの絵板を一枚入れた。
大幕へ、屋根の並んだ町の絵が浮かぶ。
けれど。
「あれ?」
フィオナが目を細めた。
家々の輪郭が、ゆっくり揺れている。
幕そのものが動いているわけではない。
屋根の線だけが水の向こうにあるように細く曲がり、戻り、また揺れる。
「風?」
レオンが幕の上端を見る。
「幕はそんなに動いてないよ」
催し係も困った顔で町映し灯を覗いた。
「昼に一度試したときは、もっとはっきり映ったんですが」
アストルは町映し灯へ近づきかけ、縄の手前で止まった。
「箱を開けるのは最後だな。まず、どこから揺れてるか見よう」
フィオナも大幕と、その手前の空間を見比べる。
「クリスには、どう見える?」
クリスはしばらく黙った。
光絵の縁に、赤や黄色の細い帯が重なって見えているらしい。
「わたしには、いろ、いっぱい。でも……」
隣のレオンを見る。
「おにいちゃんも、おうち、ゆれる?」
「うん。色は増えてないけど、端は揺れてる」
「じゃあ、ゆれるのは、わたしだけじゃない」
クリスはそれ以上、自分に見える色を答えには使わなかった。
グレゴールが大幕の横へ回り、西側の石壁を見上げた。
「灯りと幕の間に、昼を抱えた石があるな」
広場の西側には、背の高い石壁が続いている。
午後の日差しを長く受ける場所だ。
フィオナが近づきすぎないよう気をつけながら手の甲を寄せる。
「まだ、かなりぬるい」
8月24日に家の工房で確かめたものと同じだった。
日が沈んだからといって、石の熱まで一緒に消えるわけではない。
石壁のそばで温められた空気が、ゆっくり上へ昇っている。
町映し灯から大幕へ向かう光は、その前を通っていた。
「空気で光が揺れてるってこと?」
レオンが聞く。
「可能性はある」
グレゴールが答えた。
「だが、決めつける前に場所を変えて比べろ」
催し係が小さな白板を持ってきた。
まず、町映し灯のすぐ前へ置く。
同じ絵板を映す。
今度は屋根の線がはっきりしていた。
「絵板も灯りも壊れてない」
フィオナが言う。
次に白板を少しずつ大幕側へ遠ざける。
西壁の前を横切るあたりまで来ると、線がまた揺れ始めた。
アストルが頷いた。
「箱をばらす仕事じゃなかったな」
「じゃあ壁を冷たくする?」
クリスが尋ねる。
「しないよ」
フィオナが答えた。
「大きな石壁を急に冷やすんじゃなくて、光の道を熱いところから離すの」
家で熱の残る壁から作業場所を離したのと、考え方は似ている。
けれど今度は、人の居場所だけではない。
灯りから幕まで、一本の見えない道を丸ごと動かす必要があった。
レオンが広場を見回した。
「大幕を東へ動かしたら?」
「幕だけじゃ駄目だ」
アストルが答える。
「町映し灯の向きも変わる。見る席も合わせ直す」
「それに帰る道も残すのよ」
ルミナが付け加えた。
全部を一度に動かさず、順番を決めた。
最初に見物用の座布を腰掛けから外す。
次に、大幕の新しい位置を決める。
石壁から十分に離れ、町映し灯との間に人が通らない場所。
催し係とアストルが幕の支柱を動かし、ルミナとフィオナが左右から傾きを見る。
支柱が決まってから、町映し灯を少し東へ寄せる。
フィオナが白板で試し絵を受けた。
「ここなら揺れない」
大幕へ映す。
屋根の線は、今度こそまっすぐだった。
「できた!」
クリスが声を上げる。
「まだ席」
レオンがすぐ言った。
町の人が見る場所まで整って、初めて今夜の段取りは終わる。
町映し灯から大幕までの中央は空ける。
左右に腰掛け。
後ろには、途中で帰る人も通れる道を一本残す。
レオンが歩いて幅を確かめ、狭いところを見つけると腰掛けを半歩ずつずらした。
クリスは座布を新しい席へ置いていく。
「ここ、おく」
「そこは通るところ」
「あ。じゃあ、なし」
座布を抱えたまま次へ進む。
最後に家族が実際に座った。
ルミナはクリスの席。
アストルは端。
レオンは後ろ。
フィオナは通り道を入口から出口まで歩く。
「大丈夫。途中で細くなってない」
催し係がもう一度、試し灯を入れた。
大幕へ映った町の絵は、もう揺れなかった。
やがて催しが始まった。
パンを焼く朝。
川辺を走る犬。
帽子を風に取られる旅人。
灯路が点き始める前に、家へ急ぐ子どもたち。
絵板が送られるたび、催し係の読み声と一緒に物語が進んでいく。
広場のあちこちから笑い声が上がった。
フィオナは大幕を見ながら、少し不思議な気持ちになった。
家で絵物語を読むなら、頁を送る速さは自分で決められる。
今夜は違う。
知らない人も、いつもの店の人も、同じ絵が次へ送られるまで待っている。
同じところで笑い、同じところで静かになる。
自分の速さではない時間も、誰かと囲めば悪くなかった。
最後の一枚が消えると、拍手が広場を満たした。
片づけでは、腰掛けを西壁の前へ戻さなかった。
フィオナが壁へ手の甲を近づける。
「まだ熱が残ってる」
「じゃあ、朝だね」
レオンが言った。
「明るくなって、壁も冷えてから戻せばいい」
催し係も頷き、腰掛けへ『朝戻し』の札を掛けた。
大幕を畳み、町映し灯は十分に冷ましてから運搬箱へ収める。
そのとき、グレゴールの手が止まった。
運搬箱の底近くに、擦れかけた小さな焼き印がある。
催し係が布を持つ。
「そこも磨いておきましょうか」
「待て」
グレゴールは箱へ触れず、目だけを近づけた。
「汚れか、古い印か、今の明かりでは分からん。分からんものは消すな」
アストルも布を受け取らなかった。
「明日の朝、明るいところで見よう」
誰も続きを急がなかった。
今日の町映しは、今日のうちに無事終わった。
古い印は、消さずに残したままでいい。
帰り道、灯路の光が家族の足元を家までつないでいた。
さっきまで同じ幕を見ていた町の人たちも、それぞれ違う路地へ帰っていく。
一緒に見る時間が終われば、暮らしはまた一軒ずつになる。
けれど広場には、朝に戻す腰掛けと、まだ磨かれていない小さな印が残っている。
梁へ戻ったスノーは羽をたたみ、窓の外へ一度だけ目を向けた。
「見えねえからって箱をすぐ開けるな。光の通る場所を変えりゃ済むこともある――それと古い印は、汚れと決めつける前に朝の目で見ろ」




