8月27日(木):旅人帰りの日
とある世界では今日は『遠くへ出ては帰り、帰ってはまた次の旅へ向かう人の物語を思う』日。アルメリアでは『旅人帰りの日』として、旅から戻った荷をいったんほどき、次に出るとき困らない形へ整え直す日だった。
日が沈むと、フレイメル魔具修理店の工房には、この数日ですっかり馴染んだ夜風が通り始めた。
西壁の前は空けたまま。部品棚も壁から手の幅ほど離れている。
フィオナが壁へ手の甲を近づける。
「まだぬるいけど、こもってはいないね」
レオンは床の位置札と棚脚を見比べた。
「棚も夏位置のまま。渡し板も片づいてる」
昨日作った『夏位置』の部品渡し板は、古い『旧位置』の板と並んで板掛けに収まっている。
一度整えた暮らしを、次の日には元へ戻さない。
それが、この数日の家族の手つきになっていた。
預かり棚には、昨日届いた小さな旅鞄が置かれている。
日に焼けた革の持ち手に、『明日、見てほしい』とだけ書かれた札。
クリスは夕食のあとも、何度かそちらを見た。
「まだ、あけない?」
「持ち主が来てから」
アストルが答えた直後、戸鈴が鳴った。
「よう。先に鞄だけ帰らせちまったな」
入ってきたのは旅の調律師ガレスだった。
肩には軽い布袋。帽子の縁には道の埃が残り、額には夕方まで歩いてきた汗の名残がある。
「ガレス!」
レオンが立ち上がる。
「昨日の鞄、ガレスのだったんだ」
「町の向こうで仕事が延びてな。伝言屋に荷だけ頼んだ」
ガレスは預かり棚を見て笑う。
手には、小さな固焼きパンの包みを持っていた。
「途中でひつじ雲ベーカリーに寄ったら、店の青年に持たされた。夜まで歩くなら腹を空かせるなってさ」
フィオナが包みを見る。
「テオくんらしい」
それだけ言って、工房卓へ乾いた布を広げた。
ガレスが気づいたかどうかは分からない。フィオナの耳の端だけが少し赤かった。
「で、困ってるのはこいつだ」
ガレスが旅鞄を卓へ載せる。
「帰り道になると、中から小さい金属音がする。行きは静かなのに、仕事を終えて戻り始めると鳴るんだ」
「中の道具がぶつかってる?」
レオンが尋ねる。
「そのつもりで見たが、傷は見つからん」
クリスが鞄へ耳を寄せかける。
ルミナが肩へそっと手を置いた。
「先に、中を広げて確かめましょう」
ガレス自身が留め具を外した。
出てきたのは、3本の調律叉、小さな木槌、磨き布、記録帳、細い測り紐、替えの革紐だった。
アストルが調律叉を一本ずつ受け取る。
曲がりも欠けもない。
ガレスが木槌で軽く鳴らして確かめても、響きに乱れはなかった。
「道具そのものじゃなさそうだな」
フィオナは空になった鞄の内側を見る。
中央には調律叉を差す薄革の仕切りが3つ。右側に木槌、左側に記録帳を収める場所がある。
真夏の旅を続けたせいか、中央の薄革は少し柔らかくなっていた。
破れてはいない。
けれど指で押すと、乾いた季節より素直にたわむ。
「暑い間ずっと使ってた?」
フィオナが聞く。
「朝から夕方まで肩に掛けっぱなしの日もあった」
「だったら、今は仕切りも柔らかくなってるね」
グレゴールが椅子から言う。
「壊れたとは限らん。暑さで革が柔らかいところへ、帰り支度で別の物を押し込めば、形は変わる」
レオンが空の鞄を見た。
「じゃあ、行きと帰りを同じにして試そう」
まず、出発時の入れ方を再現する。
「朝は調律叉が中央。木槌が右。記録帳と測り紐が左。磨き布は上だ」
ガレスの言う通りに戻した。
肩へ掛け、工房を数歩歩く。
静かだ。
「帰りは?」
フィオナが尋ねた。
ガレスは少し考える。
「記録帳はすぐ出せるよう上。使った磨き布はきれいな道具と重ねたくないから右。測り紐は……空いた真ん中へ入れてるな」
「そこまで同じにしてみよう」
レオンが言った。
もう一度、全部出す。
今度は仕事を終えた帰り支度だ。
記録帳を上へ。
使ったつもりの磨き布を右へ。
丸めた測り紐を中央の隙間へ。
最後に3本の調律叉を仕切りへ戻す。
ガレスが肩へ掛けた。
一歩。
二歩。
三歩。
チン、と小さな音がした。
「それだ」
アストルが手を上げる。
同じ歩幅でもう一度。
また鳴った。
鞄を卓へ戻し、中身を動かさないまま口を開く。
中央へ押し込まれた測り紐が、柔らかくなった薄革の仕切りを横から押していた。
そのせいで一本の調律叉がわずかに外へ寄り、歩くたび、柄の端が留め具の裏へ触れている。
レオンが覗き込む。
「鞄が壊れたんじゃない。暑くて仕切りが動きやすいところへ、帰りの入れ方が重なったんだ」
「つまり半分は夏、半分は俺か」
ガレスが言う。
「割合は知らんが、お前もいるな」
アストルが即答した。
クリスが鞄へ向かって言う。
「かばん、わるくない」
「分かった分かった。鞄には謝るよ」
ガレスが苦笑した。
フィオナは仕切りを指で確かめる。
「破れてないなら、今は縫い足さなくていいと思う。まず帰りの置き場所を変えて、それで鳴らないか試そう」
直すのは革ではなく、帰り支度の段取りになった。
調律叉は中央の3つの差し口へ一本ずつ。
測り紐は中央へ押し込まず、左側の記録帳の下にある平たい袋へ。
使った磨き布は右側へ入れるが、熱と湿りがこもったまま金属へ触れないよう、通気する小さな布袋へ分ける。
宿へ戻ったら、磨き布は鞄から出して乾かす。
ガレスが眉を上げる。
「行きの支度じゃなく、帰った後までか」
ルミナが頷く。
「暑い季節は、しまって終わりにすると湿りも一緒に持ち越すでしょう」
レオンが言う。
「帰るところまでじゃなくて、次に出られるところまでが帰り支度なんだ」
グレゴールが小さく頷いた。
目印は文章の札ではなく、短い印だけにした。
調律叉の差し口には縦印。
測り紐の平袋には丸印。
使った磨き布の布袋には横印。
道具の場所そのものを変えるのではなく、迷いやすい帰り支度だけを見える形にする。
もう一度、同じように荷を収めた。
ガレスが鞄を肩へ掛ける。
工房の端まで歩き、向きを変え、戻る。
鳴らない。
今度は少し歩幅を変える。
それでも余計な音はしなかった。
「今度こそ静かだ」
ガレスが鞄を下ろす。
「旅ばっかりしてると、出る支度だけ上手くなるもんだな」
「帰るのも旅のうちよ」
ルミナは固焼きパンを切り分けた。
一仕事のあとのパンは少し硬く、噛むほど香ばしかった。
フィオナは一口食べて、小さく笑う。
包みには見慣れた麦穂印が押されていた。
指で触れはしない。
ただ、工房の紙箱上段にしまってある一枚の留め紙を、ふと思い出しただけだった。
外はもう、灯路の光がはっきり見える時間になっていた。
「今夜は宿へ帰るよ」
ガレスが鞄を肩へ掛ける。
「明日の朝には、また町を出る」
レオンが聞く。
「またアルメリアに戻る?」
「調律する物と、パンを押しつける奴がいるうちはな」
クリスが笑った。
「つぎも、かばん、しずか」
「そうであってほしいね」
ガレスは片手を上げ、夜の灯路へ出ていった。
旅鞄が歩みに合わせて揺れても、もう余計な金属音はしない。
戸を閉める前、レオンは外の空を見上げた。
昼間の熱はまだ石畳の奥へ少し残っている。
けれど夜風には、この数日前よりほんの少しだけ、夏の終わりを思わせる軽さが混じっていた。
明日もまだ夏休みだ。
それでも、夏のままではいられないものが、町のあちこちで少しずつ増えている。
梁の上でスノーが、灯路の向こうへ小さくなっていくガレスの背を見送った。
「出てく支度ばっかり覚えるな。帰った荷をほどいて、次に持ち出せる場所まで戻して旅は終わりだ――帰る場所があるなら、また好きなだけ歩いてこい」




