8月26日(水):橋ひらきの日
とある世界では今日は『大きな水辺をまたいで、離れていた二つの場所を一本の橋が結んだ』日。アルメリアでは『橋ひらきの日』として、渡り道を新しく掛けるときは、真ん中より先に両端の受けを確かめる日だった。
日が沈み、灯路の淡い光が路地へ伸び始めたころ、フレイメル魔具修理店の工房には、8月24日に整えた夜風の道が残っていた。
西壁の前を空け、部品棚は壁から手の幅ほど離してある。東寄りの戸から入った涼しい空気が工房を横切り、温まった空気は高窓の方へ抜けていく。
フィオナが西壁へ手の甲を近づけた。
「まだ少しぬるい。でも、前よりこもってないね」
レオンは床の位置札と棚脚を見比べた。
「棚も動いてない。今日もこのままでよさそう」
クリスは石壁を見つめた。
「わたしには、うすいあか。きのうより、ちいさい」
「見え方はそれで覚えておいて。棚を戻すかどうかは、風と壁で決めよう」
フィオナが言うと、クリスは素直に頷いた。
その日の修理を片づけ始めたアストルが、作業卓の端から細長い板を持ち上げた。
工房で使っている部品渡し板だった。
作業卓と向かいの部品棚の受け木に掛け、ねじや留め輪を入れた軽い浅盆だけを滑らせるための板だ。人が乗るものではない。細かな部品を手に抱えて通路を往復せずに済むため、作業の終わりによく使っていた。
「じゃ、こいつで戻して――」
いつものように板を掛けようとして、アストルの手が止まった。
作業卓側は載る。
しかし棚側の端は、受け木に届いてもほんのわずかしか掛からない。
アストルはすぐ板を外した。
「駄目だな」
レオンが近くまで来て、床の線の手前でしゃがむ。
「棚を壁から離した分だ」
「そういうこと」
フィオナも横から見る。
「前の長さは、前の棚の位置に合わせてあったんだね」
クリスが首を傾げた。
「ちょっと、のってるよ?」
「ちょっとだから駄目なの」
ルミナが答える。
「盆を動かした拍子に外れたら、中の小さな部品が床へ落ちるでしょう」
アストルは古い板を作業卓へ寝かせた。
「棚を前へ戻せば届く。でも、それじゃ西壁の風の道をふさぐ」
「じゃあ、戻さない」
レオンが即答した。
「24日に直したことを、今日の不便のために元へ戻したら、また暑さがこもるから」
グレゴールが地下室から上がってきて、板と棚を交互に見た。
「前の正解が、今の正解とは限らん。棚を残すなら、道具の方を今の距離へ合わせろ」
そこでクリスが思い出したように言った。
「なないろの、ふだ」
昨日、水食箱の中で見つけた七色橋札控えのことだ。
レオンが台所脇の水食箱から札を持って戻る。7月に七色の旅包み飯を扱ったときの控えで、色だけに目を取られず、持ち手と札を確かめて渡すための手順が残っている。
レオンは読み直し、渡し板へ目を戻した。
「やっぱり、これが今日の答えではないな」
「うん。包みを渡す札だからね」
フィオナが言う。
「でも、“見た目だけで決めない”ところは同じ」
クリスが札を指す。
「いろだけ、だめ。きょうは、ながさだけ、だめ?」
アストルが笑った。
「いいところだ。届くだけでも駄目だ。どれだけ載って、横へずれないかまで見る」
七色橋札控えは、その場で新しい使い方へ書き換えず、水食箱へ戻した。
昔の札は昔の仕事のまま残す。
今日の橋は、今日の寸法で作る。
アストルは乾いた板材の中から、反りの少ない一枚を選んだ。
刃物と鋸を使う工程はアストルの担当だ。
フィオナが測り紐を作業卓側の受け木から棚側の受け木まで渡す。
「受けと受けの間だけ測ったら短いよね」
「そう。両側にちゃんと掛かる分を足す」
アストルは、それぞれの受け木へ指3本分ほど載る長さを取り、紐へ印を付けた。
レオンは古い板を横へ並べる。
裏側には小さな横木が2本付いている。受け木の外側へ当たり、板が横へ滑るのを防ぐ止めだ。
「この横木の場所も、古い板からそのまま写しちゃ駄目だよね」
「棚の位置が変わったんだからな」
アストルが答える。
「先に板を切る。止めは実際に置いてから決める」
鋸を使う間、レオンとクリスは十分に離れた。
切り終えた板の角をアストルが落とし、フィオナが紙やすりで縁を滑らかにする。手で触れて、とげが残っていないことも確かめた。
そこで一度、何も付けずに仮置きした。
新しい板は両方の受けへ十分に掛かっている。
アストルが中央を軽く押す。
板そのものは安定していた。
次に裏側の止めとなる横木の位置を、実際の受け木に合わせて印する。
「ここで初めて、古い板の形が参考になるのか」
レオンが言う。
「そう。形は借りる。位置は今の場所で決める」
横木を固定し、もう一度掛ける。
左右へ軽く押してもずれない。
それでも、いきなり部品を満載にはしなかった。
まず空の浅盆だけを載せ、アストルがゆっくり棚側へ滑らせる。
引っ掛かりなし。
次に、普段の半分ほどの金具を入れて試す。
フィオナは板のたわみを見る。レオンは両端の掛かりを見る。ルミナは誰の手も盆の進む先へ出ていないことを確認する。
最後に、いつも移す程度の量まで戻した。
浅盆は傾かず、作業卓から棚の受け台へ収まった。
「できた!」
クリスが声を弾ませた。
「今度は言っていいぞ」
アストルも笑った。
新しい板には『夏位置』、古い板には『旧位置』の小さな札を付け、どちらも工房の板掛けへ立てて保管した。
古い方も捨てない。
涼しくなって棚の位置を見直す季節が来れば、また使えるかもしれないからだ。
フィオナは西壁へ手の甲を近づけた。
まだ、ほんのりぬるい。
けれど棚を元へ戻さなかったおかげで、壁際には今夜も風が通っている。
一つの不便を直すために、前に整えた暮らしを壊さずに済んだ。
「橋ひらき、できたね」
レオンが新しい渡し板を見る。
クリスは首を振った。
「きのいろ、ひとつ。でも、わたしには、いっぱいみえる」
灯路の光が板の縁へ細く映り、クリスの目にはいくつもの色へほどけているらしい。
誰も、それを板の安全を決める材料にはしなかった。
ただ、クリスにそう見えていることだけを、そのまま受け取った。
ルミナが高窓を見上げる。
「もう十分涼しくなったわ。片づけたら、今夜も閉めましょう」
アストルが工具を戻し、フィオナが測り紐を巻く。レオンは小箒で木屑を集め、クリスは通路に何もないのを見てから椅子を降りた。
片づけが終わりかけたところで、戸鈴が一度鳴った。
伝言屋の配達担当が、小さな旅鞄を一つ預けていった。
日に焼けた革の持ち手には、『明日、見てほしい』とだけ書かれた依頼札が結ばれている。
アストルは今夜は開けず、返却籠とは分けて預かり棚へ置いた。
「今日の仕事は今日で終わり。あれは明日だ」
新しい渡し板も、古い渡し板も、決めた場所へ戻った。
西壁を抜ける風だけが、もうしばらく工房に残った。
梁の上でスノーが二枚の板を見下ろし、嘴を羽へ埋めかけてから言った。
「届かねえ板を無理に乗せるな。前の涼しさを潰さず、今の幅に合わせて作り直せ――暮らしは戻すより、つなぎ直す方がうまくいく日もある」




