8月25日(火):湯戻し麺の日
とある世界では今日は『長く置いておけて、食べたいときには熱い湯と短い待ち時間で食卓へ出せる麺が、暮らしに加わった』日。アルメリアでは『湯戻し麺の日』として、保存しておいた乾いた麺を使い、真夏の台所で火を使う時間を短くする日だった。
日が沈み、灯路の光が路地へ浮かび始めたころ。
フレイメル家の工房では、昨日決めた通り、西壁の前が空けられていた。部品棚も壁から手の幅ほど離したままだ。
レオンが床の位置札と棚脚を見比べる。
「ずれてない。昨日のまま」
フィオナは西壁へ手の甲を近づけた。
「まだ少しぬるいね」
「きのうより、ちいさい」
クリスには石壁の上へ薄い橙色が揺れて見えているらしい。
けれど、その色を追いかけることはなかった。
「わたしには、そうみえる。かべは、さわってたしかめる」
アストルが頷いた。
「よし。その使い分けなら問題なし」
東寄りの戸を少し開ける。外の方が涼しいことを確かめてから高窓も開けると、夜気が工房を抜けていった。
そこで台所から、ルミナが顔を出した。
「今夜は、こっちも昨日の続きをしましょう」
食卓には、丸くまとめた乾いた麺が6つ並んでいた。
一度蒸してから水分を抜いた保存麺で、熱い湯を注いで蓋をし、決まった時間だけ置けば食べられる。そばには干した青菜と薄切りの根菜、濃く煮詰めた汁の素も用意されている。
クリスが目を輝かせた。
「めん!」
「今日は煮続けない麺よ」
ルミナが言った。
「昨日は工房に残る熱を逃がしたでしょう。台所でも、長く火を使わない夕食にしてみようと思って」
アストルが腕を組む。
「湯を沸かして注いだら火は終わり。夏にはありがたいな」
「ただし――」
ルミナが湯沸かし鍋を示した。
いつも使う大鍋ではなく、夏の夜用の小さめの湯沸かし鍋だった。
レオンが中を覗かず、外から大きさを見比べる。
「これ、6杯分は一度に沸かせないよね」
「そうなの」
「じゃあ2回?」
フィオナが言ってから、食卓の麺を見る。
先の3人分を戻している間に次の湯を沸かせば、最初の麺だけ先に出来上がる。
「一緒に食べるなら、かなりずれるね」
アストルが棚からもう一つ小鍋を出しかけたところで、レオンが台所脇の水食箱へ目を向けた。
「その前に、前の札を見ていい?」
取り出したのは、7月から残してある長麺札控えだった。
長い麺を鍋で茹でたとき、湯を扱う場所と箸を動かす場所を混ぜないために作った札だ。
レオンは読み返し、首を傾げた。
「似てるけど、今日は同じじゃないな」
「どこが?」
フィオナが尋ねる。
「前は大鍋から麺を出すときの道が問題だった。今日は麺を運ばない。器の中で戻す。困るのは、6つの待ち始めを近くすること」
グレゴールが居間から現れた。
「昔の札を何にでも当てはめなかったのは進歩だな」
「ぼくだって毎回同じ作戦は使わないよ」
レオンは少し胸を張った。
アストルは出しかけた小鍋を卓へ置く。
「なら湯沸かしを二つにする。こっちは俺、こっちはルミナ」
「火を使う時間を長くしないために、同時に沸かすのね」
フィオナが言った。
「そう。ただ、火をつける前に全部そろえましょう」
ルミナの一言で、家族の手が止まった。
短く済む料理だからこそ、始めてから汁の素や蓋を探せば、その短さが崩れる。
まず器を6つ。
麺を6つ。
汁の素を6つ分。
干し野菜。
器に合う蓋も6枚。
フィオナが一つずつ並べ、レオンが抜けを確認する。
クリスは干し野菜を小さな木匙で量る係になった。
「ひとつ。ひとつ。……これも、ひとつ」
6つ目まで入れたところで、匙に少しだけ野菜が残った。
「これ、いれる?」
「今日は入れないよ」
フィオナが答える。
「全部同じ量にしたから、残りは袋へ戻そう」
クリスは残った青菜を見てから頷く。
「ぜんぶ、いれなくていい」
季節句の日に覚えた言葉が、こんなところでも戻ってきた。
レオンは2つの鍋と6つの器を見比べる。
「3つずつに分けよう。お父さんが左3つ、お母さんが右3つ」
「蓋は?」
「ぼくが順番に渡す――」
言いかけて止まる。
熱い湯の入った器へ身を乗り出すことになる。
レオンは自分で首を振った。
「いや、蓋もお父さんとお母さんが置いた方がいい。ぼくは手を出さずに、入れ忘れだけ見る」
アストルが笑った。
「英雄、今日は指揮役か」
「熱いところに突っ込むのだけがヒーローじゃないから」
クリスは椅子へ座った。
「わたしも、まつやく」
「それが一番大事」
ルミナが言う。
子どもたちが席へ着いてから、火をつけた。
2つの鍋には同じくらいの量の水が入っている。
蓋をして沸かす。
火口の前に立つのはアストルとルミナだけだ。
湯気が上がり始めても、フィオナは器を動かさない。レオンも手を出さない。
必要なものは、もう全部そこにある。
「じゃあいくぞ」
「ええ」
火を止める。
アストルが左の3つ、ルミナが右の3つへ、順に湯を注ぐ。
それぞれ3つ目まで終えたところで、すぐ蓋をする。
フィオナが砂時計を返した。
台所が静かになった。
火は、もう消えている。
昨日までなら、この時間にも鍋が煮立ち続け、台所へ熱が足されていた。
今夜は高窓の近くに湯気が薄く残るだけだ。
「ほんとに短い」
フィオナが火口を見る。
「短いからこそ、始めるまでの準備が大事だったね」
レオンが言った。
「途中で蓋を探してたら、どの器が何分待ったか分からなくなってた」
グレゴールが席につく。
「便利な道具は、手順をなくすものではない。迷う手順を先に減らしたものだ」
クリスが眉を寄せた。
「むずかしい」
「はじめるまえに、そろえるってこと」
レオンが言い換える。
「それ、わかる」
砂時計の砂が落ちきった。
アストルとルミナが蓋を外す。
湯気と一緒に、汁の香りが広がった。
縮れていた麺は柔らかくほどけている。
クリスの目には、器の中で何本もの金色の線が重なって見えた。
「きらきら」
一度そう言ってから、箸を持つ前にルミナを見る。
「もう、たべていい?」
「お母さんが先に熱さを見るわね」
ルミナが汁を確かめる。
「まだ熱いから、一口目はゆっくり」
「うん」
6人そろって箸を取った。
麺の戻り具合にも大きな差はない。
フィオナが一口食べ、肩の力を抜く。
「ちゃんと同じころにできた」
「しかも火はもうとっくに消えてる」
アストルが嬉しそうに言う。
高窓から入る風が、台所の湯気を少しずつ薄くしていった。
西壁にはまだ昼の熱が残っている。
それでも家の中へ、新しい熱を長く足さずに夕食を作ることはできた。
食べ終えると、レオンは長麺札控えを水食箱へ戻した。
「今日は新しい札、作らなくてもいい気がする」
フィオナが頷く。
「前の札と同じじゃなかったけど、箱を見れば今日のことも思い出せそうだしね」
札を増やすことだけが、覚える方法ではない。
箱の中には、これまでの食べ物や水にまつわる控えが並んでいる。
長麺札の少し奥に、七色橋札控えの端が見えた。
クリスが指を差す。
「これ、なないろの」
レオンも覗き込む。
「久しぶりだな」
フィオナは札を取り出さず、箱の中へ収まっていることだけ確かめた。
「明日、使うことがあるかもしれないね」
窓の外では、灯路が通りの角を越えて向こう側へ続いている。
今夜は6つの器を同じ食卓へそろえた。
明日は、離れた二つの場所をつなぐものを、もう一度考える日になるのかもしれない。
梁の上でスノーが目を細めた。「早く済むもんほど、始める前に揃えとけ。短い道でも端と端が合ってなきゃ渡れねえ――明日は橋の札を、色だけ見て選ぶんじゃねえぞ」




