8月24日(月):残り熱見の日
とある世界では今日は『地の奥にある熱と力が、ときに地上の景色まで変えることを思う』日。アルメリアでは『残り熱見の日』として、昼に石や壁が抱え込んだ熱が、日暮れのあと家のどこへ残るのかを確かめ、夜風の通り道を整える日だった。
夕食が終わるころ、路地の石畳には灯路の淡い光が戻っていた。
空はもう青くない。それなのに、フレイメル魔具修理店の工房へ入ると、昼の名残が肌へまとわりつく。
フィオナは昨日と同じ西側の石壁へ手の甲を近づけた。
「……まだ、ぬるい」
アストルも隣で確かめる。
「昨日より遅い時間なのにな。しぶといなあ」
「きのうの、あついかべ?」
クリスが覗き込んだ。
「そう。でも今日は、西だけ見て終わりじゃないよ」
レオンが工房の中を見回す。
「昨日、お父さんとお母さんが、家のどこに熱が残るか比べるって言ってた。だったら場所を先に決めた方がいい。触る人も、触る高さもばらばらだと、比べにくいから」
グレゴールが入口の椅子へ腰を下ろし、眼鏡を押し上げた。
「珍しく先回りが正しい。床近くと胸の高さでも感じ方は変わる。条件を揃えろ」
ルミナが細い札を4枚、盆に載せてきた。
「西の工房壁、北の工房壁、居間の壁、玄関脇の日陰。今夜はこの4か所にしましょう」
アストルが棚柱を目印に麻紐を渡した。床から同じ高さになるよう結び、そこを比べる場所にする。
フィオナは同じ大きさの薄い陶片を4枚並べた。
難しい測定魔具は使わない。4枚をしばらく同じ工房内に置いてから、決めた場所へ同じ時間だけ直接当てる。外したらすぐ、家族が順番に温かさを比べる。
「札は陶片の横じゃなくて、置く場所へ残そう」
レオンが言った。
「陶片と一緒に動かしたら、どこのだったか分からなくなるかもしれない」
「採用」
アストルが短く答えた。
クリスは西壁の札の前へしゃがんだ。
石肌の上に、薄い橙色のゆらぎが何本も立って見える。
先週までなら、その色を追いかけていたかもしれない。
けれど今日は、しばらく眺めたあとでフィオナを見上げた。
「わたしには、あかくみえる。でも、これだけで、きめない」
「うん」
フィオナはそれだけ返した。
できるようになったことを、毎回大げさに褒める必要はない。
もうクリス自身の手順になり始めている。
4枚の陶片を壁へ当て、砂時計を返した。
待っている間、レオンが高窓へ手を伸ばしかける。
「あ。今は開けない方がいいよね」
「その通り」
アストルが頷く。
「最初の一回は、今の部屋がどうなってるかを見る。途中で風を入れたら条件が変わっちまう」
砂が落ちきった。
陶片を外し、卓上へ並べる。
クリスは指先で順に触れた。
「これ、あったかい。こっちは……つめたい」
一度止まり、言い直す。
「ちがう。にしより、ぬるくない」
ルミナが小さく笑った。
フィオナも確かめる。
西側だけがはっきり温かい。北側はかなり落ち着いており、居間と玄関脇も西ほど熱を残していなかった。
アストルが西壁を見上げた。
「午後の日差しを受けた石が、日が沈んでも工房側へ熱を返してるわけだ」
「石が時刻を知って冷えるわけではないからな」
グレゴールが言う。
「では冷却術を一発――」
「父さん」
アストルが振り返った。
「冗談だ」
グレゴールは平然としている。
フィオナは壁と部屋を見比べた。
「急に冷やす必要はないよ。まず、人がいるところへ熱がこもらないようにしたい」
「じゃあ、風ね」
ルミナが戸口へ立った。
外はすでに工房より涼しい。
ただし、すぐ窓を開けることはしなかった。
先に卓上の点検紙を紙箱へ戻す。端布を畳む。軽い木片を棚へしまう。床に出ていた工具箱を端へ寄せ、戸口から工房奥までの歩く道を空ける。
それからアストルが西側の高窓を開いた。
続いて、東寄りの戸を半分だけ開ける。
涼しくなった外気が低い戸口から入り、工房を横切った。
フィオナの前髪が揺れる。
天井近くに残っていた温かな空気は、高窓の方へゆっくり抜けていった。
「通った」
レオンが言った直後、卓の端に残っていた小さな紙片が浮いた。
「あっ」
レオンが手で押さえる。
アストルが笑う。
「だから軽い物から片づけるんだ」
「一枚残ってた。ぼくの確認不足」
「飛ぶ前に捕まえた。次は先に見ろ。それで十分だ」
レオンは紙片を紙箱へしまった。
フィオナも箱の上段を開く。
点検紙を収めようとして、指が止まった。
そこには、8/12から同じ場所にある1枚の麦穂印の留め紙があった。
端は平らなまま。
フィオナはほんの少し目を留めたが、触れずに点検紙だけを下段へしまった。
箱を閉じる。
ルミナは何も言わない。
その沈黙ごと、夜風が工房を抜けていった。
「もう一度比べる?」
レオンが陶片を見る。
「すぐは駄目」
フィオナが答える。
「さっきの壁の温度が陶片に残ってる。いったん同じ場所に置いて、揃ってから」
「じゃあ、まつ」
クリスが陶片へ伸ばしかけた手を引っ込めた。
ルミナが水差しを持ってきた。
夜になっても、昼の暑さが消えたわけではない。工房で動けば汗も出る。
家族は一口ずつ水を飲み、陶片が落ち着くのを待った。
二度目も、同じ4か所。同じ高さ。同じ時間。
結果は、西側がまだ一番温かかった。
クリスが眉を下げる。
「まだ、あつい。しっぱい?」
「違うよ」
レオンは一度目と二度目の西壁の陶片へ触れた。
「壁はまだ温かい。でも、さっきより工房の中は楽になった。壁を今日中に冷たくするのが目的じゃないから」
アストルが満足そうに頷く。
「そういうことだ。今夜の勝ちは、熱の残る場所が分かって、人のいるところから逃がせること」
フィオナは西壁の前を見た。
そこには背の高い部品棚がある。
壁との隙間は狭い。
「この棚の後ろ、風が通りにくいかも」
アストルが横から覗く。
「動かすなら中身を出してからだな」
「上から順番に出しましょう」
ルミナが言った。
小箱を一つずつ卓へ移す。
レオンが置き場所を覚えるため、上段、中段、下段の札を並べた。
クリスは運ぶ代わりに箱の札を読む。
「ねじ。かわ。とめわ。……これは?」
「座金」
「ざがね」
棚が空になると、アストルとフィオナが左右を持った。
レオンは先に床を確認する。
「こっち空いてる。クリスは戸の方にいて。おじいちゃんも足を出さないで」
「わしまでか」
「おじいちゃんが転んだら、お父さんより重い仕事が増える」
グレゴールは一拍黙った。
「反論しにくい理屈だ」
棚を壁から手の幅ほど離した。
元の場所には小さな位置札を置く。
明日の朝、棚がずれていないか確かめるためだ。
箱を下段から順に戻す。
西壁との間へ細い空気の道ができた。
戸口から入った夜気が棚の前を通り、壁際へ回る。
「これなら、棚の後ろだけ熱がこもるのは減りそう」
フィオナが言う。
ルミナは作業卓も西壁から少し離した。
「夏の間は、この位置で使ってみましょうか」
レオンが指を折る。
「夕食のあと、外の方が涼しいか確かめる。軽い物をしまう。戸と高窓を開ける。西壁の前をふさがない」
「それなら毎日できるな」
アストルが玄関小棚から「家の段取り」に使う控え札を持ってきた。
新しい札へ、フィオナが3行だけ書く。
『日暮れ後、外の涼しさを確かめる』
『軽い物をしまってから風を通す』
『西壁の前をふさがない』
長い説明はいらなかった。
毎晩守れる順番であればいい。
札を工房の入口へ掛けるころには、灯路の光が路地の奥まで続いていた。
クリスが西壁へ手の甲を近づける。
「まだ、ちょっとぬるい」
フィオナも隣で確かめた。
「うん。今日はそれでいいよ」
熱そのものは残っている。
けれど、どこに残り、どうすれば暮らす場所から少しずつ逃がせるのかは分かった。
「明日も夜に見よう」
レオンが言った。
「同じころに比べたら、今日との違いも分かる」
アストルが頷く。
「一晩で分かった顔をしない。夏の石とは、何日か付き合うくらいでちょうどいい」
ルミナは水差しを片づけながら、高窓を見た。
「もう少し風を通したら閉めましょう。寝ている間まで開け放しにはしないこと」
「はーい」
クリスが入口の札を、もう一度上から読んでいく。
西壁は明日の夜も、少し熱を残しているかもしれない。
けれど家族の方には、今夜見つけた順番が残った。
梁の上で白い翼をたたんだスノーが、壁際を抜けていく風へ嘴を向けた。
「熱を消そうとばかりするな。残る場所と抜ける道が分かりゃ、暮らしの方を先に動かせる――家ってのは、石よりよっぽど融通が利くんだよ」




