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8月23日(日):帰りを思う日

 とある世界では今日は『若くして亡くなった人びとを静かにしのぶ』日。アルメリアでは『帰りを思う日』として、戻らなかった人を思いながら、今ある暮らしと、物や人の帰る場所を大切にする日になっている。


 昼前の鐘が鳴ると、フレイメル家では一度だけ手を止めた。


 誰の名も書かない。


 人数も数えない。


 ただ少しのあいだ、それぞれの場所で静かにする。


 クリスも居間の椅子へ座り、膝へ両手を置いた。


 終わると、ルミナが水差しから杯へ水を注ぐ。


 アストルは工房へ戻り、フィオナは閉じていた課題紙を開いた。


 いつもの暮らしが、また続き始める。


 クリスも工房へ行った。


 返却棚には、昨日直した二打ち合図鈴の浅い木箱がある。


 白い返却布が掛けられ、荷札は布の上へ置かれていた。


「きょう、かえる?」


「昼すぎに受け取りの人が来る予定だ」


 アストルが答える。


 クリスは布へ手を伸ばさない。


「よばれてから」


「覚えてるな。じゃあ、今日も見る係」


「うん」


 レオンも工房口へ来た。


「返す前に、昨日と同じか確かめるんだろ」


 フィオナが点検紙を持ってくる。


「箱、荷札、中身。最後に一度だけ鳴らす」


 アストルが白い返却布を持ち上げた。


 その瞬間、高窓から入った光が布へ当たった。


 白い折り目が明るく光る。


 床にも細い白線が伸びた。


 一本は工房口へ。


 一本は返却棚の奥へ。


 もう一本は居間の方へ続く。


 クリスの目が丸くなる。


「みち、いっぱい」


 白布が風で少し揺れる。


 すると白い道がさらに増えた。


 作業台の下へ。


 工具棚へ。


 玄関へ。


「どれで、かえる?」


 クリスは一歩出かけた。


 けれど、足を戻す。


 この一週間、何度も見た。


 金色に見えた実。


 増えた水の線。


 何匹もいるように見えた虫。


 広場まで伸びた水の道。


「……いっぱいのとき、いかない」


 レオンが床を見る。


「ぼくには布の光だけ見える」


「私も」


 フィオナも答えた。


 クリスは白い道を見たまま、返却棚の前へ戻る。


「じゃあ、まつ」


 ルミナが白布を空いた台へ広げた。


「そうね。消そうとしなくていいから、少し見ていましょう」


 誰も布を動かさない。


 クリスも道を追わない。


 高窓から風が入る。


 布の端が一度だけ浮き、白い線が増える。


「また、ふえた」


「うん」


「でも、ここ」


 クリスは動かなかった。


 しばらくすると、風が止まる。


 白布も静かになる。


 床へ伸びていた細い道が、一つずつ薄くなった。


 棚の奥へ向かっていたものが消える。


 居間へ向かうものも消える。


 最後には、高窓から差す普通の日なたしか残らなかった。


「なくなった」


 レオンが尋ねる。


「でも、箱は?」


「ここ」


「返す相手は?」


 クリスは荷札を見る。


 字は全部読めない。


 けれど、丸い車輪の印は覚えていた。


「くるまのしるし」


 フィオナが点検紙を横へ並べる。


「うん。受け取り札にも同じ印が付いている予定」


 クリスは床を見る。


 道はもうない。


「みち、なくても、わかる」


「何で分かる?」


 アストルが聞く。


「ふだ。しるし。はこ」


「その三つなら、俺にも見える」


 返却前の確認を始めた。


 アストルが留め金を外す。


 大きな鈴椀が一つ。


 小さな鈴椀が一つ。


 打ち腕が一つ。


 引き紐が一本。


 昨日交換した当て革も、決めた位置に収まっている。


 フィオナが点検紙を読む。


 レオンは作業台に外した部品が残っていないかを見る。


 クリスは鈴を数える。


「ひとつ。ふたつ」


「じゃあ、最後に一回だけ鳴らす」


 子どもたちは見学位置へ戻った。


 アストルが引き紐を引く。


 チン、チン。


 二つの音が続く。


 クリスの目には、銀色の細い線が二本だけ現れた。


 昨日のように追わない。


 一本目が薄くなる。


 二本目も消える。


 少し待つ。


 余分な音はしない。


「ふたつで、おしまい」


「よし。返せる」


 木箱を閉じ、留め金を掛ける。


 白い返却布も元へ戻した。


 また床へ白い筋が見えたけれど、クリスはもう笑うだけだった。


「これは、わたしの、みち」


「箱の道じゃない?」


 レオンが聞く。


「うん。はこのかえるとこ、ふだ」


 昼すぎ、工房の戸鈴が鳴った。


 受け取りの人が来た。


 差し出された受け取り札には、荷札と同じ丸い車輪の印がある。


 クリスが見比べる。


「おなじ」


 アストルも文字と印を確かめてから、修理した場所を説明した。


「戻り腕の当て革を交換しています。昨日三回、今日一回試して、余分な三打ち目は出ていません」


 受け取りの人も留め金と荷札を見る。


「確かに受け取ります」


 白布を外し、木箱が相手の腕へ移る。


 クリスはそれを見送った。


 白い道は出なかった。


「かえった」


「今から持って帰るところだぞ」


 レオンが言う。


 クリスは少し考える。


「じゃあ、かえりはじめた」


「それならそうだな」


 戸鈴が鳴り、扉が閉まる。


 返却棚には何もなくなった。


 クリスは空いた場所を見つめる。


「からっぽ」


「返せたから空いたのよ」


 ルミナが言った。


「空いていれば、次に預かったものを安全に置けるでしょう?」


 クリスは棚の奥まで見る。


 箱もない。


 荷札もない。


 置き忘れもない。


 白い返却布はアストルが軽く払い、畳んで布箱へ戻した。


「しろいのも、かえる」


「布には布の帰る場所があるからな」


 クリスは満足そうに頷いた。


 午後のいちばん暑い時間は、家族みんなが外へ出ずに過ごした。


 クリスは居間の小紙箱を開ける。


 今週作った札や紙片が入っている。


『しろい』 『つぶ』 『まつ』


『おと』


 二つの丸。


 どれも返却棚には持っていかない。


「これは、わたし」


「そうだね」


 フィオナが答えた。


 クリスは紙を元の箱へ戻した。


 借りたもの。


 預かったもの。


 自分のもの。


 見た目が似ていても、帰るところは同じではない。


 夕方、日が傾いても、工房の西側の石壁には昼のぬるさが残っていた。


 アストルが壁際へ手をかざす。


「今日は熱が抜けるのが遅いな」


 ルミナも台所側の壁際を見る。


「明日は夜になってから、家のどこに熱が残っているか比べてみましょう」


 クリスは石壁へ触らず、少し離れたところから眺めた。


 昼はもう終わった。


 それでも、昼の熱はまだ家の中に残っている。


 梁の上のスノーが、空になった返却棚と夕方の石壁を見下ろした。


「見えた道を帰り先にするな。札と持ち主が合ってりゃ、道なんか消えてもちゃんと戻れる――明日は日が沈んだあとまで居座る熱を見つけろ」


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