8月21日(金):落ち水見の日
とある世界では今日は『噴き上がる水を眺め、その涼しさや流れを楽しむ』日。アルメリアでは『落ち水見の日』として、高く上がる水だけでなく、落ちた水がどこへ集まるのかまで見て楽しむ日になっている。
朝のうち、クリスは帽子をかぶって玄関に立っていた。
「みず、みにいく」
昨日、町の方から聞こえた大きな水音。
音だけでは決めず、見てから確かめる。その続きだ。
日差しが強くなる前の短い外歩きなので、出かけるのはクリスとレオン、それにルミナだった。
アストルは工房に残り、フィオナは夏休みの課題を進める。
地下室へ下りる前のグレゴールが、帽子の紐を確かめているクリスへ言った。
「高く上がるところだけ見れば、噴水は水を空へ捨てているようにも見えるぞ」
クリスが首を傾げる。
「すてるの?」
「帰ったら、お前が教えろ」
答えはくれなかった。
広場へ着くと、中央の石造りの噴水が朝の光を細かく散らしていた。
丸い下鉢の中央に石柱が立ち、その上の受け皿へ水が上がっている。縁からこぼれた水は下鉢へ落ち、周りの細い水口から出る水も、弧を描いて同じ鉢へ入っていた。
クリスの目が輝く。
「たかい!」
中央の水が一番高い。
細かな飛沫まで光って見える。
クリスは石縁へ近づこうとして、ルミナの手が肩へ触れた。
「見るのは乾いたところからね。縁へ上がらない。噴水の水も飲まない」
「うん」
クリスは乾いた石畳で止まった。
レオンも隣へ並ぶ。
「昨日、スノーが言ってた。跳ねてる上だけじゃなくて、落ちた先まで見るんだろ」
「わたし、みる」
クリスはまず中央の水を一筋だけ選んだ。
上がる。
広がる。
受け皿へ落ちる。
そこからあふれて、さらに下鉢へ。
「もどった」
「どこへ?」
レオンが尋ねる。
「したのおおきいとこ」
次に、外側の細い水口を一つ見る。
水は弧になって下鉢へ落ちる。
「これも、なか」
もう一つ。
「これも」
そのとき、広場を風が横切った。
細かな飛沫だけが横へ流される。
クリスが指を差した。
「そと!」
朝日に光った水滴が、石縁を越えて長く続いて見えた。
一つ一つの水滴のあいだへ、薄く透き通ったものがつながっていく。
下鉢から石畳へ。
石畳から花壇の方へ。
水でできた細い道が、広場の向こうまで伸びたように見えた。
「みずのみち!」
クリスは一歩踏み出しかけた。
靴を置く前に止まる。
昨日、虫の影を追わずに待ったことを思い出した。
「おにいちゃん。みえる?」
レオンは指された方を見た。
「飛沫は見える。でも、道には見えない」
「おかあさんは?」
「風に流された細かい水は見えるわ」
ルミナはクリスの足元を指す。
「今立っているところも見てみようか」
クリスは下を見る。
水の道があるように見えた場所のほとんどは乾いていた。
噴水の近くだけ、飛沫が届いた小さな濡れ跡が点々と残っている。
「あれ」
前を見る。
透明な道はまだ長い。
足元を見る。
濡れているのは近くだけ。
「みえるのと、ぬれてるの、ちがう」
「うん」
ルミナはそれ以上、答えを足さなかった。
クリスは別の水口も確かめようとして、途中で止まる。
「いっぱいみたら、まざる」
「じゃあ、一つだけにしよう」
レオンが言った。
「今の水口を、そのまま見る」
二人は一本だけを見る。
水が出る。
弧になる。
下鉢へ落ちる。
風が来ると、細かな飛沫だけが横へ流される。
そのたびに、クリスの目には透明な道が長く伸びた。
「また、ながい」
「そのまま見てよう」
誰も場所を変えない。
クリスも道を追わない。
やがて風が弱まった。
透明な道が短くなる。
また少し風が来る。
伸びる。
しばらく見ていると、クリスが自分から言った。
「かぜのとき、ながい」
「うん」
「かぜないと、みじかい」
もう少し待つ。
本当の水は、ずっと同じ下鉢へ落ちていた。
クリスに見えていた透明な道だけが、ゆっくり薄くなっていく。
最後には、朝日に光る細かな飛沫だけが残った。
「きえた」
レオンが尋ねる。
「水は?」
「ある」
「落ちるところは?」
クリスは乾いた場所から指を差した。
「おおきいとこ」
「じゃあ、噴水の水が道になって花壇まで流れてた?」
クリスは首を横へ振る。
「ちがう。ちいさいみず、かぜできた」
少し考え、付け足す。
「わたしの、みちは、もっとながかった」
ルミナが微笑んだ。
「そこを分けられたなら十分ね」
クリスは今度、噴水全体を見る。
高く上がる水。
受け皿へ落ちる水。
下鉢へ集まる水。
風に運ばれる細かな飛沫。
最初に高いところだけを見たときとは、違う噴水に見えた。
「おじいちゃんに、いう」
「何て?」
「みず、すててない」
レオンが笑う。
「外へ飛ぶ水も少しあっただろ」
「あ」
クリスは考え直す。
「おおきいの、なか。ちいさいの、かぜ」
「その方がちゃんと見た答えだな」
噴水の反対側へ回ると、また見え方が変わった。
正面から一つに重なって見えていた二本の水が、横からは離れている。
「ふたつ!」
「本数が変わったんじゃないぞ」
レオンが言う前に、クリスが頷いた。
「みるとこ、かわった」
「そう。それなら大丈夫」
クリスは走らず、乾いた道を一歩ずつ移動した。
正面。
横。
少し離れたところ。
同じものでも、見る場所で重なり方が変わる。
そのことまで確かめたころ、日差しが強くなり始めた。
ルミナが空を見上げる。
「そろそろ帰りましょう」
「もう?」
「今日はここまで。暑くなる前に帰る約束よ」
クリスは名残惜しそうに噴水を振り返った。
そのときだった。
下鉢の水面を、翼を広げたような細い影が一度だけ横切った。
クリスは石畳を見る。
そこには同じ影がない。
空を見上げても、鳥の姿は見つからなかった。
「いま……」
レオンも空を見た。
「何か見えた?」
クリスはもう一度水面を見た。
いつもの光が揺れているだけだ。
「かげ。……でも、もうない」
「じゃあ、今はそれだけ覚えておこう」
ルミナが言った。
誰も影を追わなかった。
家へ戻るころには、石畳の照り返しが強くなっていた。
帽子を脱ぎ、手を洗い、水を飲む。
昼の卓では、グレゴールが待っていた。
「さて。噴水は水を捨てていたか?」
「すててない」
クリスは言ってから、すぐ言い直した。
「ちがう。おおきいみず、なかにもどる。ちいさいの、かぜでそと」
グレゴールが眼鏡を押し上げた。
「その方がよい。見たものを一つの言葉へ押し込まなかったな」
クリスは満足そうに頷いた。
午後は外へ出ず、居間で過ごした。
クリスは昨日までの言葉札を出さなかった。
台所でルミナが杯へ水を注ぐのを見て、水が上から下へ落ち、器の中へ集まるところを静かに眺める。
少し跳ねても、卓の上へ長い水の道はできない。
「こっちも、おちる」
一人で確かめていると、工房の戸鈴が鳴った。
アストルが客から浅い木箱を受け取り、作業台へ運んでくる。
箱を置いた拍子に、中から小さな金属音が二度した。
チン、チン。
クリスが顔を上げる。
「ふたつ」
アストルは箱の荷札を確かめた。
「明日見る預かり物だな。今日は開けないぞ」
クリスは工房へ走っていかなかった。
「じゃあ、あした、みる」
梁の上へ戻っていたスノーが、窓の向こうの広場と閉じた木箱を順に見下ろした。
「噴き上がった水を道だと思って追うな。落ちる先まで見てりゃ、本筋はちゃんと残る――明日の二つ鈴も、音だけ聞いて中身まで決めつけるんじゃねえぞ」




