8月20日(木):細羽虫見分けの日
とある世界では今日は『夏の小さな羽虫をきっかけに、追い回す前に姿と居場所を確かめる』日。アルメリアでは『細羽虫見分けの日』として、家に入り込んだ虫と、虫が入りやすい場所を落ち着いて見直す日になっている。
昼前の居間で、クリスは高窓を見上げていた。
昨日、三枚の言葉札を並べ終えたあと、細い羽音が聞こえた。
けれど、昨日は新しい札へ何も書かなかった。
音しか分からなかったからだ。
「きょう、みる」
クリスは窓へ駆け寄らず、居間の真ん中で止まった。
レオンも隣へ来る。
「昨日は音だけだった。今日は、見つけてから決めよう」
「うん。おにいちゃんも、さきにいわない」
「分かってる」
高窓には、夏のあいだ風を通すための細目網が張られている。戸布は強い日差しを避ける位置まで閉じられ、窓だけが細く開いていた。
ルミナが台所から顔を出した。
「虫がいても追いかけて走らないこと。高いところへ登るのは大人だけね」
「わたし、みるひと」
「ぼくも見る人」
そこへ工房から戻ったアストルが手を洗って入ってくる。
「では父が、高いところを見る人だな」
「脚台を使うなら私が支えるわ」
ルミナに言われ、アストルは素直に頷いた。
そのとき、クリスの右側を細い羽音が通った。
「あっち」
振り向く。
今度は戸布の近くから聞こえた。
「こっちも」
小さな黒い影が、棚の上を横切った。
もう一つが卓の下へ。
さらに天井の近くにも浮かぶ。
「いっぱい、いる!」
クリスの声が上ずった。
黒い影は一つから三つ、三つから五つへ増えていく。
羽音まで、部屋のあちらこちらから聞こえるようになった。
レオンは一歩踏み出しかけて止まった。
「待って。急に増えた」
「でも、いるよ。ここも。あそこも」
クリスが指を動かすたび、別の場所へ黒い点が現れる。
フィオナが居間の入口で足を止めた。
「私はまだ、一匹もはっきり見えてない」
アストルも窓の下から動かない。
「俺もだ。音はするが、五匹いるようには見えないな」
クリスは皆の顔を見た。
「わたしだけ?」
不安そうに言った途端、影がまた一つ増えた。
クリスは両手で目元を隠しかけた。
「みない。そしたら、きえる?」
ルミナがそばへ来る。
「見てもいいのよ」
「でも、いっぱいになる」
「いっぱい見えているなら、そのままで少し待ちましょう。消そうと頑張らなくていいの」
クリスは手を下ろした。
「うれしく、しないほうがいい?」
昨日、水面に白い線が増えたときにも考えたことだ。
レオンが首を横へ振る。
「昨日、笑っても増えないときがあっただろ。楽しいから必ず増えるって決めない方がいい」
クリスは少し考えた。
「じゃあ、いまは、いっぱい」
「うん。今はそう見えてる」
家族はその場で動くのをやめた。
戸布にも触れない。
窓も開け閉めしない。
黒い影が棚の上を飛ぶ。
別の一つが卓の脚へ回る。
クリスは追わずに見る。
しばらくすると、卓の下の影が薄くなった。
次に棚の上。
天井の近くにいた二つも、いつの間にか消えている。
「へった」
クリスが小さく言った。
誰も急いで答えない。
もう少し待つ。
最後まで残った一つが、高窓の下の白い壁へ止まった。
今度はレオンも見つけた。
「一匹、そこ」
フィオナも頷く。
「私にも見える」
クリスは壁を見る。
小さな虫が一匹。
さっきまで飛んでいた黒い影とは違って、じっと止まっている。
「ほんとの、ひとつ」
「みんなが同じ場所を見られたね」
ルミナが言った。
アストルは透明な小さな虫取り筒と薄い紙板を持ってきた。
虫の上へ筒を静かにかぶせ、壁と筒の間へ紙板を差し入れる。
子どもたちは少し離れて見守った。
「入ったぞ」
筒の中には一匹だけいる。
クリスは自分の周りを見る。
もう影は増えていない。
「わたしの、いっぱい、いなくなった」
「いなくしたんじゃなくて、待っていたら薄くなったのよ」
「じゃあ、またでても、まつ」
「まず危なくない場所で止まる。それからね」
虫は裏口から外へ出した。
アストルが戻ると、今度は高窓を確認する。
脚台を平らな床へ置き、ルミナが横から支える。
「網に破れは……なし」
上辺。
左右。
下辺。
留め紐にも外れはない。
アストルは細い紙片を網と窓枠の境へ軽く当て、一周させた。
「大きな隙間もなし」
レオンが高窓を見上げる。
「じゃあ、ここから入ったって決められないね」
「その通り」
フィオナが答えた。
「昨日ここで羽音がしたことと、ここから入ったことは別だから」
クリスも頷く。
「おと、ここ。はいったとこ、わかんない」
家では朝から裏口も使っている。
荷物を受け取るために玄関も開けた。
いつ入ったのかは確認できない。
だから、分からないものは分からないままにした。
その代わり、高窓の細目網はもう一度張りを確かめ、戸布の端が網へ触れない位置へ戻した。
「なおした?」
クリスが聞く。
アストルは首を横へ振った。
「今日は壊れてなかった。壊れてないものを、直したことにはしない」
「みただけ?」
「見て、確かめた」
クリスはその言葉を気に入ったようだった。
「みて、たしかめた」
昼食まで高窓は同じ幅で開けておいた。
一度、風が通る。
細目網がわずかに動いて戻る。
外れない。
少しして、もう一度風が入る。
やはり変わらない。
クリスは笑った。
黒い影は増えなかった。
「わらっても、だいじょうぶ」
「今日はね」
レオンが言う。
「明日も同じとは決めない。でも、今日のことは覚えておける」
昼食のあと、クリスは居間棚から昨日の三枚を出した。
『しろい』 『つぶ』 『まつ』
その横に、新しい一枚を書く。
『おと』
少し考えて、さらに一枚。
『ひとつ』
二枚を近づける。
『おと』『ひとつ』
クリスは読んだ。
「おと。……ひとつ」
首を傾げる。
並べ直す。
『ひとつ』『おと』
「ひとつ、おと」
今度は頷いた。
「きょう、これ」
昨日の三枚とは混ぜず、別の厚紙へ置く。
「昨日の言葉と一緒にしないの?」
フィオナが尋ねる。
「うん。きょうは、むし」
「自分で分けたんだね」
夕方、日差しが弱くなってから、ルミナは裏口脇の鉢を見回った。
クリスとレオンも帽子をかぶり、短い時間だけついていく。
鉢の下の浅皿に、朝の水やりでこぼれた水が少し残っていた。
「みず、ある」
「夏は、こういう残った水もそのままにしないようにしましょう」
ルミナが鉢を持ち上げ、レオンが浅皿の水を流す。
クリスは乾いた布で皿の外側を拭き、日陰の風が通る場所へ置いた。
「むし、ここから?」
「それも決められないわ」
ルミナは答える。
「でも、残したままにしない方がいい場所だから整える。それで十分よ」
クリスは空になった皿を見た。
「わかんないのと、やること、べつ」
「そうね」
町の方から、水の落ちる音が聞こえた。
広場の方角だった。
クリスは耳を澄ませる。
「みず、おおきい」
レオンも聞く。
「明日の朝なら、暑くなる前に広場へ行けそうだな」
クリスは札を取りに戻らなかった。
まだ、音しか知らない。
「みてから、かく」
梁の上でスノーが、二枚の新しい札と乾かしている浅皿を見下ろした。
「増えた影を追い回すな。ひとつに戻るまで見てりゃ、本物はちゃんと残る――明日の水も、跳ねてる上ばっかり見ずに、落ちた先まで見ろ」




