8月12日(水):祝い歌合わせの日
とある世界では今日は『祝いの儀式で歌う歌詞と楽譜が、公の告示で選び定められた記録が残る』日。アルメリアでは『祝い歌合わせの日』として、家に残る祝い歌の写しを見比べ、言葉の切れ目と節の続き方を確かめる日。
昼のアルメリアは、石畳の照り返しまで白く見えた。フレイメル家では厚い戸布を半分下ろし、水差しを居間へ移して、外の用事を夕方まで止めている。
レオンは玄関の返却籠の前でしゃがんだ。布巻きの細長い包みが一本、横向きに置かれている。初等学舎から預かっている古い音管だ。外側と包み布の乾きはもう確かめてあるが、返却まで音は出さない。
「今日、歌の日なら、これで最初の音だけ取ったら分かりやすくない?」
フィオナが首を振った。
「返すものだから、今日は鳴らさないよ。乾いてるか確かめることと、使っていいことは別」
「うん。分かってる。聞いてみただけ」
返事の端が少し硬くなった。フィオナも気づいたらしく、何か言い足そうとしたところで、ルミナが居間の棚から平たい紙箱を持ってきた。
「音管を借りなくても、家に写しがあるわ。今日はこれを見ましょう」
中には、祝い事のときに使う歌の写しが三枚あった。幅広の歌詞紙、細長く書き写した紙、それから節の上がり下がりを小さな点で記した譜紙。どれも端が少し丸く、何度か広げた跡がある。
アストルが白布を卓へ敷いた。
「古い紙は汗でも反る。水は向こう、紙はこっち。まず場所を分けるぞ」
ルミナが水差しを卓から一歩遠ざけ、フィオナは三枚の紙を重ねず横に並べた。グレゴールは椅子から眺めている。クリスは卓へ顎を乗せかけ、ルミナに背中をそっと戻された。
「ぼく、合図係やる」
レオンは細長い写しを選んだ。昨日は坂の向きが変われば持ち方も変わると覚えた。だから今日は、歌い始める前にちゃんと確かめるつもりだった。
「ここに印あるよね。ここで一回止める。みんな、それでいい?」
フィオナは自分の幅広の紙を見て頷いた。
「うん、そこなら息を入れるところ」
アストルも譜紙を見て、「いいぞ」と答えた。
確認した。今度は決めつけていない。
そう思って、レオンは掌を上げた。
家族の声が重なる。短い節を半分ほど歌ったところで、レオンは細長い写しの印に合わせて掌を下ろした。
フィオナの声とアストルの声だけが、その先へ半拍残った。
クリスが目を丸くする。
「おわり、ちがう」
「え?」
レオンは紙を見直した。
「ここって言ったよ。みんな、いいって言っただろ」
フィオナも自分の紙を卓へ置いた。
「私の『ここ』は、もう一つ先の縦印だった」
「ぼくの紙は、ここに印がある」
「俺の譜は、そこじゃ音が続いてるな」とアストルが言う。
胸の奥がむっと熱くなった。今度は聞いた。勝手に決めなかった。それなのに、また合わない。
「じゃあ、何を聞けばよかったんだよ」
声が少し大きくなり、居間に気まずい間が落ちた。
ルミナは誰の紙にも触れずに言った。
「『ここ』が、みんな同じ場所だったかしら」
レオンは答えず、三枚を見た。
グレゴールが眼鏡を上げる。
「場所を確かめたつもりで、指している紙を確かめていない。昨日とは別の転び方だな」
「転び方が変わっても、うれしくない」
「同じ石に二度つまずいていないなら、見る場所は増えている」
レオンは口を尖らせたまま、細長い写しを白布の上へ戻した。
フィオナが三枚の端を揃えようとして、途中で手を止める。
「紙の端じゃなくて、同じ言葉を揃えよう。幅が違うから」
最初の一節の同じ言葉を探し、三枚を少しずつずらす。レオンが左から読み、フィオナが次の語を指す。アストルは譜紙の点を追う。
細長い写しは紙幅が狭く、途中で行が替わっていた。行末には、次の行へ続くことを示す小さな鉤のような印がある。幅広の歌詞紙には、息を入れる場所へ短い縦印があった。
形が似ていた。
「ぼく、これを息の印だと思った」
「私は、レオンの紙にも私と同じ息の印があると思ってた」とフィオナが言った。「紙を見ないで返事した。ごめん」
アストルも頭を掻いた。
「俺は譜が続いてるのを見てたのに、『いいぞ』で済ませた。何がいいのか言ってなかったな。悪い」
レオンは二人の紙を見比べた。
「ぼくも、『この言葉のあと』って言えばよかった。印だけ見せて、みんな同じ印だと思った」
「じゃあ、わける?」とクリスが聞いた。「いきと、つづく、べつ?」
「うん。別にする」
古い紙へ書き足すのはやめた。フィオナが工房の紙箱から無地の端紙を二片取り出す。そのとき、箱の上段にある麦穂印の留め紙が見えた。
彼女の指先がほんの一瞬だけ止まり、留め紙の端を平らに直してから、無地の紙だけを持って戻る。
レオンは何も言わず、その一片を受け取った。
二つの端紙に、レオンが大きく書く。
『いき』 『つづく』
「紙そのものに貼ると跡が残るから、下に置こう」とフィオナが言う。
息を入れる縦印の下には『いき』。行替えの鉤印の下には『つづく』。譜紙は言葉の位置に合わせて横へずらす。三枚が動かないよう、アストルが乾いた木片を四隅へ置いた。
レオンはもう一度、最初から指で追った。
「この言葉のあとで、息。細長い方はその前に行が替わるけど、歌は止めない。これで同じ?」
フィオナが自分の紙を指して答える。
「同じ」
アストルは譜の点を示した。
「音も続いて、そこで息だ」
ルミナも頷いた。
「今度は何を合わせたか分かるわね」
「よし。一節だけ」
レオンが掌を上げる。
行が替わっても下ろさない。鉤印を越え、同じ言葉のところで全員の息がそろう。短く息を入れ、それから最後まで続けた。
歌い終わると、クリスが胸の前で人差し指を一本立てた。
「しつもん」
「なに?」
「わたし、ちゃんと、いきした?」
レオンは笑った。
「した。しかも、ぼくより落ち着いてた」
「わたし、あいずまもり?」
「今日はそう。ぼくも合図守り」
さっきの気まずさが、ようやくほどけた。
二枚の端紙は歌の写しと一緒に挟まず、紙箱の手前へ置いた。次に広げるとき、まず意味を確かめるためだ。三枚は元の順で箱へ戻し、白布を畳み、水差しを居間の定位置へ戻す。
レオンは玄関へ行き、返却籠を覗いた。古い音管は朝と同じ布巻きのまま、横になっている。
「これも、返す前に勝手に鳴らさない。『使っていい?』まで聞く」
フィオナが隣へ来た。
「うん。さっきは言い方きつくて、ごめん」
「ぼくも、聞いたのに合わなくて腹立った。ごめん」
「聞くところまでは合ってたよ。今日は、その次が増えたね」
窓の外は、昼の白さを少しずつ失い始めていた。屋根の向こうに、夕方の空が薄く青みを取り戻している。
レオンは戸布の隙間から外を見た。
「明日、涼しくなってからさ。少し高いところで灯路を見たら、近い灯りと遠い灯り、違って見えるかな」
「空と風を見てからね」とルミナが台所から答えた。
レオンは頷いた。同じ場所を見ているつもりでも、立つ場所が違えば見え方は変わる。今日の紙みたいに。
梁の上で、スノーが畳まれた白布と返却籠を見下ろした。「『ここ』で通じると思うな。相手の紙まで見て、同じ場所を指してから声を合わせろ――まあ、お前らは食卓の場所だけは聞かなくても外さねえけどな」




