7月29日(水):遠声名札の日
とある世界では今日は『個人が自分の設備を使い、遠くの相手と名や場所を確かめながら交信する』日。アルメリアでは『遠声名札の日』として、灯り文箱から短い名札を送り、受け取る側が迷わないよう、家の名、場所、ひとことを順に書く日。
朝、フィオナは台所の乾かし籠に広げてあった布へ指を当てた。前夜、菜葉の水切りに使った布だ。端だけでなく中央まで乾いている。明朝分に残した幅広の菜葉は汁物へ入り、空になった浅籠も洗って伏せられていた。
「昨日の片づけ、これで終わり」
布を台所の棚へ戻すと、夜に使う場所が空いた。
日が落ち、灯路が石畳の継ぎ目から淡く光り始めたころ、家族は玄関脇の灯り文箱の前へ集まった。五月の『遠声受け口の日』に、受け口の埃を払い、開閉を知らせる細い紐を右へそろえた箱だ。声そのものを運ぶ道具ではない。短文札を遠くの受け口へ渡すための生活魔具である。
ルミナが受け箱の小棚から短文札束を出した。
「今夜は、名、場所、ひとこと。この三つだけにしましょう」
レオンは札の端へ3本の短い線を引いた。
「最初に家の名。次に町のどこか。最後に今の様子。読む人が、途中から見ても分かる順番にする」
クリスは指を3本立てた。
「おなまえ。ばしょ。げんき」
「最後は、何を書きたいかでいいのよ」
ルミナが笑う。
アストルは灯り文箱の横に掛けてある遠声受け口布を取り、受け口の縁を乾拭きした。フィオナは短い刷毛で溝を外向きに掃く。五月に決めた『右は受ける』『左は点検』の板札も、箱の横で読める向きに掛かっていた。
「先に試し送り」
フィオナは宛先を家の内側受け箱に合わせ、白紙の短文札を受け口へ差し入れた。
札は半分まで進み、止まった。
紙の右上が小さく折れ、受け口の下へ垂れた細い紐が、斜めに札の角へ重なっている。
「紐が、道へ出てる」
レオンが腰を落として見る。
五月には右へまっすぐ垂れていた紐が、今夜は少し長く、戸布の端へ触れてねじれていた。昼の湿りを吸い、重くなったらしい。
アストルは白紙札を無理に引かなかった。
「送るのを止める。紙を先に戻す」
箱の内側受け口を開き、札を後ろからそっと押し戻す。折れたのは角だけで、灯り刻印に傷はない。
グレゴールが眼鏡を押し上げた。
「向きを直しただけでは、また戸布へ寄る。湿った紐は、乾いても撚りが残ることがある」
「じゃあ、外して比べる」
フィオナが小皿を出し、アストルが紐の小さな留め具を外した。留め具は小皿へ。紐は乾いた紙の上へまっすぐ伸ばす。受け箱の小棚にあった予備の細紐を隣へ置くと、古い紐は爪一つぶん長く、下半分だけが左へねじれていた。
クリスが顔を近づけかけ、ルミナの手に肩を止められた。
「見るのは、ここからね」
「さわらない。ひも、ながい」
レオンは板札を指した。
「右へ垂らすだけじゃ足りない。受け口の前へ出ない長さにする。戸布へ触れないことも確かめる」
アストルは予備の細紐を元の長さよりわずかに短く切った。切り口を指で撚り、ほつれを整える。フィオナは留め具の穴と受け口の下の溝を遠声受け口布で拭き、細い木べらで固い埃を外へ寄せた。
新しい紐を留め具へ通し、結び目を箱の裏側へ回す。アストルが留め具を締め、フィオナが紐を右へ垂らした。受け口との間には指一本ぶん、戸布との間にも細い隙間が残る。
「ひっぱっていい?」
クリスが聞く。
「強くは引かない。向きだけ確かめよう」
フィオナが答えると、クリスは紐の先を指先で少し右へ動かし、離した。紐は受け口の前へ戻らず、右側で止まった。
もう一度、白紙の短文札を試す。今度は角を曲げずに受け口へ入り、家の内側受け箱で鈴玉が小さく鳴った。
レオンが受け箱を開く。
「折れなし。埃なし。紐は右。これなら本番に進める」
家族は一枚の短文札を囲んだ。
一行目は、フィオナが書く。
『フレイメル家』
二行目は、レオン。
『東通り』
三行目で、皆の手が止まった。
「今の様子なら、修理が終わった、でいいんじゃないか」
アストルが言う。
「それだと、道具の報告だけね」
ルミナはクリスを見る。
クリスは考え、短く言った。
「みんな、げんき。ひも、なおった」
フィオナはそのまま書いた。
『みんな元気です。受け口の紐を直しました。』
長すぎず、誰が、どこから、何を知らせたかが分かる。宛先は灯路番所。フィオナが札を受け口へ滑り込ませると、今度は止まらず、灯り刻印が淡く光って消えた。
しばらくして鈴玉が鳴った。紐は右のまま、受け口をふさいでいない。
届いた札には、灯路番ハーガンの短い字があった。
『灯路番所。北の交差路。こちらも受け取りました。灯路は今夜も静かです。』
「北から来た」
クリスが嬉しそうに言う。
「箱のすぐ向こうからじゃない。名前と場所が書いてあるから、遠さを間違えない」
レオンは返事札へ『受け取りました。終わり』と書き、同じ順で送り返した。
その後、薬草温室「緑雨舎」の温室番ラウラからも一枚届いた。
『緑雨舎。南通り。香り葉は元気です。』
前夜に乾いたまま残した香り葉を思い出し、ルミナが小さく笑った。
遠くの家と交わしたのは、合わせても数枚の札だけだった。それでも、北の交差路と南通りが、順番を守って玄関へ届いた。短い言葉ほど、受け口の小さな曲がりや、書く順の乱れが目立つ。だからこそ、直った道具の手触りが分かる。
フィオナは『遠声名札控え』へ書いた。
『家の名、場所、ひとことの順。送る前に受け口を拭く。紐は右へ、紙の道へ出さない。試し札が曲がったら本番を送らない』
控え札は玄関小棚の『町の手順』へ入れた。短文札束は受け箱の小棚へ。遠声受け口布は埃を払い、灯り文箱の横へ戻す。外した紐は再利用せず、短く切って処分した。
台所の涼み棚では、梅の塩漬け甕の蓋に細かな水滴が並んでいた。ルミナは今夜は開けず、乾いた布を横へ置いた。明日の朝、外側から確かめてから蓋を取るためだ。
スノーが梁の上から灯り文箱を見下ろした。「遠くへ渡す札ほど、角を折るな。受け口の紐を脇へ退けてから流せ――明日は梅の甕を開ける前に、蓋の汗を拭け」




