7月30日(木):梅塩ひらきの日
とある世界では今日は『梅を食べると難が去るという言い伝えを思い出し、夏の保存食を見直す』日。アルメリアでは『梅塩ひらきの日』として、甕を開ける前に外側の湿りを拭き、今夜確かめるものと明朝まで待つものを分ける日。
朝、フィオナは台所の涼み棚の前にしゃがんだ。
梅の塩漬け甕の蓋には、昨夜見つけた細かな水滴がまだ並んでいる。横には、ルミナが置いておいた乾いた布があった。
「開ける前に、外から見るんだったね」
フィオナは布を四つに折り、蓋の中央から縁へ向けて拭いた。甕の肩、蓋の合わせ目、棚板の順に指を止める。白い塩跡も、梅酢が伝った筋もない。
ルミナは甕へ顔を近づけず、少し離れて匂いを確かめた。
「漏れた匂いもないわ。夜までそのままにしましょう」
アストルは蓋へ伸ばしかけた手を引いた。
「朝のうちに見た方が、早く安心できると思ったんだが」
「早く開けることと、早く安心することは同じじゃないよ」
レオンが言い、細い確認札へ『外側は乾いた。夜まで待つ』と書いた。札は甕に触れさせず、棚の手前へ立てた。
夜、灯路の光が窓の下へ届くころ、確認札も蓋の合わせ目も乾いたままだった。水滴は甕の冷えた外側へ、夏の湿った空気が触れてできたものらしい。
今夜は中を短く確かめ、食卓には去年干した梅を一粒だけ出すことになった。
ところが、家族が台所の低い卓へ集まると、甕を置く場所がなくなった。
アストルは大きな干し籠を持ってきた。レオンは浅籠を三つ。クリスは小皿を六枚。グレゴールは蓋を安定させるための深鉢を二つ。フィオナは外側用の布と清潔な置き布を並べ、その横へ控え札と筆まで置いている。
ルミナは甕を抱えたまま、卓の前で立ち止まった。
「梅を置く場所は、たくさんありますね」
「甕の場所がないな」
アストルが干し籠を見下ろす。
「今夜、干すんじゃないの?」
レオンが聞いた。
「干し始めは朝の空と風を見て決めるの。夜に広げれば、また湿りを拾ってしまうわ」
ルミナの答えを聞き、レオンは浅籠を二つ重ねた。
「ぼくも三つはいらない。今日は『甕を確かめる』と『去年の梅を食べる』だけだ」
「おさら、みんなのぶん」
クリスは六枚を胸へ抱えた。
「梅肉は一粒を分けるから、小皿も一枚で足りるわ」
「ひとつを、ろくにする?」
「そう。種はお母さんが外すから、クリスは触らなくて大丈夫」
使わない干し籠と浅籠を棚へ戻し、小皿も一枚だけ残した。卓の中央には甕。その右に蓋と重しを置く深鉢。左に去年の梅を載せる小皿。手前には外側用の布と、蓋の内側を下へ付けないための清潔な置き布だけを置く。
フィオナは二枚の短い札へ『そと』『おく』と書いた。
「『なか』じゃないのか?」
アストルが尋ねる。
「中を拭く布じゃないから。きれいな蓋と箸を置く場所。名前を間違えると、甕の中へ布を入れそうになる」
「そと。おく」
クリスは二枚を見比べ、外側用の布を指した。
「こっちは、ぬれていい。こっちは、きれい」
「うん。よく見分けられたね」
ルミナが手を洗い、乾かす。アストルとフィオナは甕を厚い敷き布の中央へ移した。卓の縁から指二本ぶん内側に収まっていることを、レオンが一周して確かめる。
まず、外側用の布で蓋と甕口の周りをもう一度拭いた。アストルが重しを両手で持ち上げ、深鉢へ置く。ルミナが蓋を水平に外し、内側を上へ向けて清潔な置き布へ置いた。
塩と梅の酸っぱい匂いが、静かに立った。
クリスはルミナの隣から、鼻だけを少し動かした。
「すっぱい。へんなにおい、ない」
甕の中では、梅が赤い梅酢の下に沈んでいる。表面に乾いた実はなく、見える範囲の皮も破れていない。
グレゴールは眼鏡を押し上げた。
「外側の水滴は外側のこと。中の様子は中を開けてからのことだ。似た心配でも、同じ答えにしてはいかんな」
「昨日の短文札みたいだ」
レオンが言う。
「箱の近くに見えても、どこから来た札かは名前と場所で確かめた。今日は蓋が濡れていても、漏れたって決めない」
ルミナは清潔な箸で一番上の梅をそっと動かし、梅酢が周りへ戻るのを見た。それ以上は触らない。
「中も大丈夫。今日はここまで。干すかどうかは明日の朝に決めましょう」
蓋を戻し、重しを載せ、甕の外側を乾拭きする。確認札には『外の湿り。漏れ跡なし。梅は梅酢の下。干し始めは朝に決める』と追記した。
食卓へ出したのは、台所の小瓶に残っていた去年の梅だった。
ルミナが種を外して梅肉を細かく分け、六つの麦粥へほんの少しずつ載せる。クリスは箸の先ほどの梅を口に入れ、目をぎゅっと細くした。
「すっぱい。おみず」
レオンが水差しを寄せる。アストルは自分の梅を粥へ混ぜ、グレゴールは一口ごとに酸味が薄くなるのを面白そうに確かめた。
「難が去る、か」
アストルが言う。
ルミナは甕の確認札を見た。
「大きなことが消えるというより、今日の小さな困りごとを先に減らせた、くらいでいいんじゃないかしら」
余分な籠を戻したから、甕を置けた。外側を拭いてから開けたから、水滴を中へ落とさずに済んだ。今夜干さないと決めたから、梅を夜露へ出さずに済んだ。
フィオナは酸味の残る麦粥をゆっくり飲んだ。すっぱさのあとから、麦の甘みが戻ってくる。
食後、『梅塩ひらき札控え』へ書いた。
『蓋の湿りを拭いてから開ける。外側と中の様子を分けて見る。今夜使わない籠は戻す。干し始めは朝の空と風で決める』
控え札は台所脇の『食べ物と水』へ入れた。外側用の布は洗い籠へ。清潔な置き布は使った面を上へしたまま、乾かし籠の縁へ一枚で広げる。
筆を工房へ戻したフィオナは、紙箱の上段を一度だけ引いた。麦穂印の留め紙が、前にそろえた向きのまま平らに収まっている。湿りも反りもない。フィオナは端へ触れずに上段を戻した。
その様子を見たレオンは、何も言わずに洗った水差しを台所へ運んだ。
片づけが終わるころ、玄関脇の灯り文箱で鈴玉が鳴った。
届いた短文札には、三行だけ書かれていた。
『月読み文庫』 『図書室』 『古い声留め箱。回し始めだけ音がかすれます。明朝、相談に持参します。』
居間の棚では、六月から布巻きで休ませている古い音管が静かに横たわっている。息で鳴らす管と、声を残して回す箱は似ていない。けれど、どちらも音を急がせれば、最初の異変を聞き逃す。
スノーが梁の上から甕と短文札を見下ろした。「梅は一粒で足りるし、確かめる道具も一つずつでいい。残した声ほど最初の一巡を急がすな――明日の回し箱は、鳴らす前に置き台を空けろ」




