7月18日(土):白もや風屋根の日
とある世界では今日は『白いもやに空がかすみ、外へ出る前に風と休み場所を確かめる』日。アルメリアでは『白もや風屋根の日』として、白いもやを見る前に、風の逃げ道、休む屋根、水の場所を決めてから歩く日。
夏休み初日の朝、フレイメル家の玄関はいつもより明るかった。
初等学舎も王立魔法学院分校も休みで、星粒ほいくえんも通常活動はない。いつもの登校前の急ぎ足がないぶん、玄関小棚の前には家族がゆっくり集まっていた。昨日の名替え門札控えが、いちばん手前に出ている。
『古い名。新しい名。向き。通る門。助け鈴』
レオンは夏休み用の町歩き帳を開きながら、窓の外を見た。灯路石の上に、朝の光が白く乗っている。道の先、水路の低いところだけが、ふわりと薄くかすんでいた。
「白いもやだ」
クリスが窓へ近づいた。
「しろい。ふわふわ?」
「ふわふわに見えるけど、近くへ見に行くものじゃない」レオンは町歩き帳を閉じた。「昨日スノーが言ってた。白いもやを見る前に、風の逃げ道と休む屋根を見る」
「みるまえ、みる」
「うん。外へ出る前に、道を組み直す」
ルミナは台所から水差しを持って来た。
「今日は夏休み初日ね。うれしくて外へ飛び出したくなる日ほど、休む場所が大事よ」
フィオナは学院の課題袋を居間へ置き、窓の向こうを細く見た。
「川沿いは、風が通るところと止まるところがあるよ。白いもやが低い場所に残っているなら、坂の上へ回った方がいいかも」
「水門の見回り道は?」
レオンが聞くと、アストルが工房の戸口で首を横へ振った。
「朝いちばんに行くには、少し遠いな。夏休み初日で足が走る。今日は近所の広場までにしておけ」
「ぼく、走らないよ」
「そう言うときが、いちばん走る」
梁の上で、スノーが片目を開けた。
「夏休みって言葉に足を貸すな。足は自分のもんだ」
レオンは少しむっとした。でも、反論はしなかった。昨日までの1学期で、何度も覚えた。むっとしたときほど、札を見る。
彼は玄関の床へ、短い札を並べた。
『風の逃げ道』 『休む屋根』 『水の場所』 『戻る道』
クリスがしゃがみ込む。
「やね、どこ?」
「近い順に見る。家の軒下。ひつじ雲ベーカリーの前の白い庇。広場の東屋。今日はそこまで」
「ひつじぐも、いく?」
「寄るとは決めない。休む屋根として見るだけ」
フィオナが小さく咳払いをした。レオンは気づいたが、何も言わない。今日の主役は、町歩きの動線だ。
ルミナは水筒を二つ出した。大きい方はレオン、小さい方はクリス。フィオナにも薄い杯袋を渡す。
「水の場所は、持っていく水と、町で足せる水の二つに分けましょう」
「白陶の湯の外水盤、広場の井戸札、灯路番所の水桶」
レオンが町歩き帳へ書く。
アストルは玄関の戸を半分だけ開けた。外の空気が入る。暑い。けれど、風がまったくないわけではない。家の前から商店街の方へ、細い風が抜けている。
「風、こっち」
クリスが袖をつまんだ。
「そう。家の前から商店街へは通ってる。でも水路へ下りる坂は止まって見える」
レオンは戸の外へ出かけて、足を止めた。
「まず、見るだけ」
門のところから、右と左を見る。左へ行けば水路。白いもやが低く残っている。右へ行けば商店街の屋根が続き、風が細く流れている。広場へ行くなら、右から回る方がいい。
「今日の道は、右回り。水路へ下りない。広場の東屋まで行って、そこで休む。白いもやが残っていたら、そのまま戻る。薄くなっても、水門までは行かない」
「なんで?」クリスが聞いた。
「初日だから。行けるところまで行く日じゃなくて、戻れるところを決める日」
その言葉を言うと、レオンの胸が少し熱くなった。ヒーロー心は、遠くへ行くことだけではない。小さい子を連れて戻れる道を決めることも、十分にヒーロー心だ。
家族で外へ出た。
ルミナは後ろ、アストルは少し前、フィオナはクリスの斜め横。レオンは先頭ではなく、半歩前を歩く。先頭を走らないための半歩だ。
商店街の白い庇の下では、風が一度ゆるんだ。レオンは立ち止まる。
「ここ、休む屋根」
クリスが庇を見上げた。
「やね、しろい」
「白いから休むんじゃない。風が止まる場所だから、一度水を飲む」
「まだ、のど、かわかない」
「乾く前に飲む」
レオンがそう言うと、ルミナが小さく笑った。
「いい判断ね」
広場へ着くころ、白いもやは水路の上で薄くなっていた。けれど、完全には消えていない。遠くの石橋が、白い布の向こうにあるみたいに見える。
クリスは少しだけ身を乗り出した。
「もっと、みる」
「見に行かない。ここで見る」
レオンは東屋の柱へ、今日の札を仮に置いた。
『白もやあり。水路へ下りない。東屋で休む。右回りで戻る』
アストルが感心したように眉を上げた。
「お、札まで持ってきたのか」
「夏休み初日だから。自分で決めた道は、札にしないと忘れる」
フィオナは広場の石畳を見た。
「水の筋も、まだ残ってる。昨日までの札が全部つながってるね」
「町の名、光の向き、戻す包み、差し口、影と音。全部、外へ出る前に見るものだった」
レオンはそう言って、少し照れた。言葉にすると、1学期が急に長く見えたからだ。
東屋で水を飲み、風が通るまで待った。魔法は使わない。白いもやを払うこともしない。ただ、通る風を選び、屋根のある場所で休み、戻る道を先に決める。
やがて、水路の上の白さが少しだけ上へほどけた。
「きえた?」
クリスが聞く。
「少し薄くなった。でも、今日はここまで」
「もっと、いかない?」
「行かない。戻れるうちに戻る」
クリスは残念そうに口を尖らせたが、すぐに頷いた。
「もどれる、ひーろー」
「そう。戻れるヒーロー」
レオンは胸を張った。
帰り道は、来た道と同じ右回りだった。戻る道を変えない。広場の東屋、白い庇、家の軒下。休む屋根を逆順にたどると、家までの距離が短く感じた。
家へ戻ると、レオンは白もや風屋根札控えを作った。
『風の逃げ道。休む屋根。水の場所。戻る道』
横に、東屋と水筒と、白いもやを小さく描く。クリスはその隣に、半歩だけ前に立つレオンの丸を描いた。
「これ、ぼく?」
「お兄ちゃん、はんぽ」
「半歩前か。いいね」
玄関小棚へ、白もや風屋根札控えが加わった。名替え門札控えの隣に、今日の札が入る。家息札、灯鈴札、行き戻り荷札控え、四音札控え、半箱札控え、足手逃げ道札控え、長麺札控え、冷渦札控え、芯皮札控え、切り光札控え、葉皿ほめ札控え、星紐願い札控え、戻り札預け札控え、順足札控え、糸向き札控え、席間札控え、みまもり札控え、影音見分け札控え、空向き花札控え、差し戻し札控え、七色橋札控え、名替え門札控え。その列に、夏休み最初の札が加わった。
夜の灯路が窓の外で淡く光り始めた。明日は女性大臣の日。フィオナが、町内会の小さな当番表を見ながら「役を決めるなら、座る場所と聞く順番も要るね」と言った。レオンは、誰が前に立つかより、誰の声が届くかを先に見るのだろうと思った。
梁の上で、スノーが白もや風屋根札控えを見下ろし、低く言った。「白いもやを追いかけるな。風の逃げ道と休む屋根と水の場所を見て、戻れるうちに戻れ。……明日は役を決める前に、座る場所と聞く順番を見ろ」




