7月17日(金):名替え門札の日
とある世界では今日は『古い町の名が、新しい名で呼ばれ始めた』日。アルメリアでは『名替え門札の日』として、町の名を呼ぶ前に、古い札と新しい門札の向き、通る道、台帳の名前を確かめる日。
金曜の朝、フレイメル家の玄関には、昨日の七色橋札控えが置かれていた。
『色で選ばない。持つ手を見る。戻す包み札を出す。受け取り台帳に合わせる』
レオンは靴紐を結びながら、その札を読んだ。今日は1学期の最後の日だ。明日から夏休み。胸は少し軽い。けれど、最後の日ほど、持ち帰る札や夏休み用の道案内が増える。
「今日は、初等学舎で夏休みの町歩き札を見るんだ」
クリスが玄関小棚の前で振り向いた。
「まち、あるく?」
「うん。休み中に通っていい道、寄っていい場所、迷ったときの門札を確認する。東京の日だから、作中では名替え門札の日」
「なまえ、かわる?」
「古い名前と新しい名前を、つなげて読む日」
ルミナはレオンの襟を直した。
「古い札を、間違いとして扱わないのよ。昔の名前で覚えている人もいるから」
「消さない。向きを合わせる」
フィオナは学院の鞄を肩に掛けながら頷いた。
「新しい札だけ見て進むと、古い地図を持っている人とすれ違うかもしれない。向きと台帳が大事だね」
「道は一つでも、呼び方が二つあることがある」
アストルが工房から顔を出した。
「お父さんも昔、古い宿場名で待ち合わせをして、若い地図師に笑われたことがある」
地下室の扉の向こうから、グレゴールの声がした。
「古名を笑う者は、古い道で迷う」
「おじいちゃん、今日は短い」
クリスが感心すると、梁の上のスノーが嘴を鳴らした。
「短いから正しいとは限らん。だが、札を裏返す前に読めという話なら、珍しく合ってる」
初等学舎の校門前には、いつもより多くの札箱が置かれていた。
1学期最終日なので、朝の会の前に夏休みの町歩き確認がある。通っていい道、立ち止まっていい広場、助け鈴の柱がある角。低学年にも分かるように、色紐と門札で示すらしい。
けれど、受け取り台の上で、札が少し混ざっていた。
古い道名札。新しい門札。通行確認札。台帳控え。どれも薄い木札で、雨上がりの湿りを吸って少し重たそうに見える。
低学年の子が、古い札を手に取った。
「これ、まちがい?」
札には『東荷門前』と書いてある。隣の新しい門札には『東門前』。同じ場所を指しているようにも見えるが、字が違う。
「古いほう、裏にする?」
別の子が言った。手が伸びる。古い札が裏返されそうになる。
レオンの胸が跳ねた。
「止まろう。裏返す前に、台帳を見る」
「でも、新しい札があるよ」
「新しい札があるから、古い札を消していいとは限らない。古い名前で道を覚えている人がいる」
レオンは自分で貼り替えなかった。昨日、色包みを自分だけで配らなかったのと同じだ。今日は町の名前だ。子どもだけで決めるものではない。
校門のそばにいた初等学舎の朝当番教員へ、レオンは少し丁寧に言った。
「すみません。町歩き札で、古い道名札と新しい門札が混ざっています。低学年の子が古い札を裏返しかけました。台帳確認が先だと思います」
朝当番教員はすぐに頷いた。
「知らせてくれてありがとう。町名札担当を呼びましょう」
受け取り台の向こうにいた合同ギルド支部の町名札担当が、革表紙の台帳を持って来た。
町名札担当は、札をすぐ並べ替えなかった。まず白い布を広げ、札を4つに分けた。
『古い名』 『新しい名』 『通る門』 『控え』
「名替え門札は、古い札を捨てる日ではありません。古い名で来た人と、新しい名で来た人が、同じ門へ着けるようにする日です」
レオンは息を吐いた。
「じゃあ、『東荷門前』は間違いじゃない」
「間違いではありません。今は『東門前』と呼ぶことが増えましたが、古い荷置き場の名が残っている人もいます」
低学年の子が札を見比べる。
「じゃあ、ふたつ?」
「呼び方は二つ。門は一つ」
町名札担当は台帳を開いた。古い名の横に、新しい名。その横に、向き矢印と、助け鈴の柱の位置が書いてある。
問題は、向きだった。
古い札は、東門へ向かう矢印が右を向いている。新しい門札は、同じ門へ向かうはずなのに、左を向いていた。札の表裏ではなく、貼る向きが混ざっていたのだ。
「これだ」
レオンは思わず言った。
「名前が違うんじゃなくて、向きが違う。右門用と左門用が、一つの箱に入ってる」
町名札担当が頷いた。
「よく見つけました。仮置きの箱で混ざっていましたね」
朝当番教員は短い白紐を床に置いた。
「ここから先は確認中。子どもたちは紐の外で待ちます」
レオンは待つ側へ戻った。手は出したい。でも、これは町の門札だ。ヒーロー心は、先に直すことではなく、正しい人へ渡すことだ。
町名札担当は、右門用の札を右の白布へ、左門用の札を左の白布へ置いた。古い名と新しい名を上下に並べ、向き矢印をそろえる。台帳の番号を読み上げ、朝当番教員が写し札に記録する。
「東荷門前、現名、東門前。右向き。助け鈴あり」
「南水車筋、現名、水車通り。左向き。水門へは行かない」
「西石段下、現名、西段前。右向き。低学年は大人同伴」
レオンは低学年の子へ小声で言った。
「聞こえた? 似た名前でも、行き先が違うことがある。だから、門札だけじゃなくて、助け鈴や水門の印も見る」
「レオンくん、むずかしい」
「むずかしいから、札にする」
朝当番教員が笑った。
「では、レオンくん。今日の確認札を一枚作ってくれる?」
レオンは炭筆を持った。大きく、短く、読む順に書く。
『古い名。新しい名。向き。通る門。助け鈴』
町名札担当は、その下へ小さく台帳番号を書き足した。
「これで、町の控えにも戻せます」
確認が終わると、通行確認札が出された。
『夏休み町歩き用。古い名と新しい名を並べて読む。門札の向きを見てから進む』
低学年の子たちは、札を一つずつ声に出して読んだ。古い名を笑う子はいなかった。新しい名だけを急いで覚えようとする子もいなかった。二つの名が、同じ道へ重なるのを見てから、夏休みの町歩き帳へ写した。
朝の会で、担任は言った。
「明日から夏休みです。新しい道を歩くときほど、古い札も見ましょう。町は、今の名前だけでできているわけではありません」
レオンは自分の写し札を見た。
古い名。新しい名。向き。通る門。助け鈴。
一つ多いようで、一つも余分ではない。困ったときに戻るための順番だ。
夕方、レオンは名替え門札控えを玄関小棚へ置いた。
七色橋札控えの隣に、今日の札が入る。家息札、灯鈴札、行き戻り荷札控え、四音札控え、半箱札控え、足手逃げ道札控え、長麺札控え、冷渦札控え、芯皮札控え、切り光札控え、葉皿ほめ札控え、星紐願い札控え、戻り札預け札控え、順足札控え、糸向き札控え、席間札控え、みまもり札控え、影音見分け札控え、空向き花札控え、差し戻し札控え、七色橋札控え。その列に、町名の札が加わった。
クリスが札を覗き込む。
「ふるい、なまえ、ばいばい?」
「ばいばいじゃないよ。新しい名前と一緒に読む」
「いっしょ?」
「うん。昔の名前で来た人も、今の名前で来た人も、同じ門へ行けるようにする」
フィオナは学院の鞄を下ろしながら、少し静かに笑った。
「名前を変えるって、消すことじゃないんだね」
ルミナは玄関小棚の札の向きを整えた。
「そうね。向きが合えば、古い札も新しい札も、誰かを迷わせないわ」
アストルは工房の古い工具箱を見た。
「父さんの工具箱にも、旧名と新名がいるな。昔の呼び方で探すと、だいたい違う棚を開ける」
地下室の扉の向こうから、グレゴールの声がした。
「古名を残すなら、字を正しく書け」
「まず地下室の棚札を読める字にしてから言ってください」ルミナが穏やかに返した。
夜の灯路が窓の外で淡く光り始めた。明日から夏休み。クリスは「なつやすみ」と小さく言い、レオンは町歩き帳の最初のページをもう一度開いた。明日は白いもやが出やすいと担任が言っていた。外へ飛び出す前に、風の逃げ道と休む屋根を見る必要がありそうだ。
梁の上で、スノーが名替え門札控えを見下ろし、声を低くした。「古い名を笑うな、新しい名に飛びつくな。札の向きと通る門を台帳に合わせてから町を呼べ。……明日は白いもやを見る前に、風の逃げ道と休む屋根を見ろ」




