7月15日(水):家遊び箱の差し口の日
とある世界では今日は『家の中で遊ぶ箱が、手元の小さな押し石と絵の板をつなぎ、みんなで映し窓を囲む楽しさを広げた』日。アルメリアでは『家遊び箱の差し口の日』として、遊ぶ前に、差し口の向き、手元板の戻し場所、片づける棚札を確かめる日。
水曜の朝、フレイメル家の玄関には、昨日の空向き花札控えが置かれていた。
『高い花を見る前に、光の向きと水の筋を確認』
レオンは靴紐を結びながら、それを一度読んだ。昨日は高い花に目を取られず、足元の水筋を見た。今日は高いものではない。けれど、楽しいものは目を持っていく。
「今日は、友人が古い遊び箱を持ってくるんだ」
「遊び箱?」クリスが玄関小棚の前で振り向いた。
「箱に絵板を差して、手元板の押し石で小さな光絵を動かす道具。家の中で遊ぶものだって」
「ぴかぴか?」
「たぶん。でも、先に差し口を見る」
ルミナはレオンの鞄の口を整えた。
「借り物なら、遊ぶ前に持ち主と戻す場所を確認するのよ」
「うん。戻す棚札」
フィオナは学院の鞄を肩へ掛けながら、少し真面目な顔をした。
「古い差し口は、力で押し込むと曲がるよ。入らないときは、向きが違うか、埃があるか、どちらかを見るの」
「押さない。向きを見る。埃を見る」
アストルが工房から顔を出した。
「接点がくもっていたら、乾いた布で軽く磨くんだ。息を吹き込むなよ。朝の湿りが入る」
「分かってる。息じゃなくて刷毛」
梁の上で、スノーが片目だけ開けた。
「楽しい箱ほど、開ける手が先に走る。走った手は、だいたい差し口を折る」
初等学舎の朝は、いつもより少しざわついていた。
同じ5年生の友人が、布で包んだ箱を抱えてきたからだ。箱は古く、角が少し丸くなっている。横には薄い絵板が三枚、二つの手元板、細い接続紐がある。どれにも小さな札がついていたが、札の文字は少しこすれていた。
「兄さんの棚から借りてきたんだ。朝の自由時間だけ、先生の前で見せてもいいって」
友人の声は嬉しそうだった。けれど、布をほどく手は少し不安そうでもある。
低学年の子たちが集まってきた。
「見たい!」
「押し石、押したい!」
「絵板、入れて!」
レオンも見たかった。手元板には丸い押し石が二つあり、片方には小さな十字の溝がある。動かしたら、どんな光絵が出るのか。胸の奥が熱くなる。
けれど、昨日の言葉が残っている。
遊び箱を開ける前に、差し口と戻す棚札を見る。
「止まろう。まず、布の上に全部置く」
「えー」
「借り物だから。持ち主と戻す場所が先」
レオンが言うと、友人はほっとしたように頷いた。
「戻す棚札、兄さんがつけたんだけど、少し消えてる」
箱の底に、細い札が貼られていた。
『上段右。絵板は青箱。手元板は下段』
右の端が湿りで少し浮いている。これを読まずに遊び始めたら、終わったあとに、どれをどこへ戻すのか分からなくなる。
レオンは机の上に白い布を広げた。
「箱。絵板。手元板。接続紐。棚札。分けよう」
「レオンくん、直すの?」
「勝手には直さない。まず、初等学舎の道具担当教員に見てもらう」
レオンは近くにいた初等学舎の朝当番教員へ知らせた。朝当番教員は、遊び箱を見てから、道具棚の方へ声をかける。少しして、初等学舎の道具担当教員が来た。
「古い家遊び箱だね。持ち主の許可は?」
友人が手を挙げた。
「兄さんに、学校で見せるなら先生の前でって言われています」
「では、ここで確認しましょう。レオンくん、何を見る?」
「持ち主。戻す棚札。差し口の向き。絵板の向き。埃」
「いい順番です」
道具担当教員は箱を開けなかった。まず、外側を乾いた布で軽く拭く。次に、絵板を一枚ずつ布の上へ並べた。絵板の端には小さな金色の線があり、箱の差し口と合わせるようになっている。
低学年の子が手を伸ばしかけた。
「待つ場所はここ」
レオンは机の端に短い紐を置いた。昨日の白紐みたいに、見る場所と待つ場所を分ける。
「今は差し口を見る時間。押し石を押す時間じゃない」
「いつ押せる?」
「確認してから。短く試すだけ」
子どもたちは少し残念そうだったが、紐の外へ戻った。
道具担当教員は箱の差し口を覗いた。中に、細い紙埃が絡んでいる。朝の湿りで、端が少し重くなっていた。
「ここを息で吹くと、湿りが奥へ入ります」
レオンは頷いた。
「刷毛で外へ出す」
道具担当教員が細い刷毛を渡す。レオンは受け取ってから、すぐ動かさなかった。箱を押さえるのは持ち主の友人。レオンは差し口の外側から、手前へ向けて紙埃を寄せる。奥へ押し込まない。引き出す。
小さな埃が布の上へ落ちた。
「出た」
「次は接点のくもり」
乾いた布を細く折り、金色の線を軽く拭く。磨くというより、眠っていた曇りを起こすくらいの力だ。強くこすれば、線が傷む。
アストルなら、もっと細かいことまで見るだろう。けれど、ここは初等学舎で、借り物で、朝の自由時間だ。できることを小さくするのも、今日のヒーロー心だ。
浮いていた戻す棚札は、剥がさなかった。道具担当教員が薄い当て紙を上に重ね、同じ内容を写す。古い札を消さず、新しい札で読めるようにする。
『上段右。絵板は青箱。手元板は下段。接続紐はゆるく輪』
「元の札も残すんですね」
レオンが聞くと、道具担当教員は頷いた。
「持ち主の札だからね。直すのは読める道で、元の約束を消すことではありません」
レオンは少し胸を張った。
「分かります。戻す道を増やす」
「その言い方でいい」
低学年の子が聞いた。
「絵板、入れていい?」
「向きを見る」
レオンは絵板の小さな矢印を確認した。箱の差し口にも、同じ向きの切り欠きがある。さっき友人が入れようとした向きは、少し斜めだった。
「斜めに入れない。止まり線まで、まっすぐ」
友人が絵板を持ち、レオンが横から見た。押し込まない。入るところまで進み、止まり線が箱の端とそろう。
かちり、というほどの音はしない。ただ、絵板が浮かなくなった。
次に、手元板の接続紐を見る。差し口は二つある。片方には小さな1の印、もう片方には2の印がある。手元板の札も、1と2に分けられている。
「逆だと、動かす人が迷う」
レオンは札をそろえた。1の手元板は1の差し口へ。2の手元板は2の差し口へ。接続紐の曲がりは、机の角にかからないように丸く置く。
道具担当教員が頷いた。
「短く試しましょう。長く遊ぶ前に、一度だけ」
友人が押し石を一つ押した。
箱の小窓に、小さな光絵が浮いた。荒い線の、四角い家と、跳ねる丸。今の魔具よりずっと単純だ。けれど、子どもたちの顔は一斉に明るくなった。
「動いた!」
「もう一回!」
レオンの手も動きかけた。押したい。動かしたい。けれど、差し口の日は、遊び切る日ではない。
「今日は、動くか確認するだけ。戻す棚札まで作って終わり」
「えー」
「壊さず戻せたら、次にまた借りられる」
友人が小さく笑った。
「それ、大事。兄さん、そこ見ると思う」
道具担当教員は新しい札を一枚くれた。
『差し口を見てから入れる。絵板は青箱。手元板は下段。接続紐は丸めない』
「丸めない?」
レオンが聞く。
「きつく丸めると、中の細い線が疲れます。ゆるく輪にして、布で留める」
「紐にも休み場が要るんだ」
「そうです」
朝の自由時間が終わるころ、遊び箱は元の布へ戻った。絵板は青箱。手元板は下段の袋。接続紐はゆるい輪。戻す棚札は、友人の兄の札と、今日作った控え札の二枚になった。
レオンは写しを一枚もらった。
『持ち主。差し口。絵板向き。手元板1と2。接続紐。戻す棚札』
授業の鐘が鳴る。子どもたちは名残惜しそうに離れたが、遊び箱は壊れていない。箱が壊れていないから、楽しさも次へ残る。
夕方、レオンは差し戻し札控えを玄関小棚へ置いた。
空向き花札控えの隣に、今日の札が入る。家息札、灯鈴札、行き戻り荷札控え、四音札控え、半箱札控え、足手逃げ道札控え、長麺札控え、冷渦札控え、芯皮札控え、切り光札控え、葉皿ほめ札控え、星紐願い札控え、戻り札預け札控え、順足札控え、糸向き札控え、席間札控え、みまもり札控え、影音見分け札控え、空向き花札控え。その列に、遊び箱の札が加わった。
クリスが目を丸くする。
「ぴかぴか、うごいた?」
「動いたよ。でも、少しだけ」
「もっと、しない?」
「もっとしたかった。でも、借り物は戻せてから次」
フィオナは差し戻し札控えを読んだ。
「レオン、接点磨きまでしたの?」
「先生の前で、少しだけ。押し込まなかった」
アストルはうれしそうに腕を組んだ。
「押し込まなかったなら、半分は修理屋だな」
「半分?」
「残り半分は、戻す棚札を忘れないこと」
ルミナが微笑んだ。
「今日は両方できたわね」
グレゴールは札を読み、眼鏡を押し上げた。
「遊びとは、次に同じ遊びができるよう残す技術でもある」
「おじいちゃん、今日は遊びたいだけじゃないんだね」
レオンが言うと、地下室の扉の向こうで咳払いがした。
夜の灯路が窓の外で淡く光り始めた。明日は旅包み飯の日。初等学舎では、包んだ昼食を持ち出す小さな話し合いがあるらしい。レオンは遊び箱の札を見ながら、食べ物も道具も、渡す前に持つ手と戻す包みを見るのだろうと思った。
梁の上で、スノーが差し戻し札控えを見下ろし、低く言った。「楽しい箱ほど、手が先に走る。差し口を見ろ、絵板の向きを見ろ、戻す棚札まで読んでから遊べ。……明日は包み飯を渡す前に、持つ手と戻す包み札を見ろ」




