7月12日(日):体舟みまもりの日
とある世界では今日は『長く進む体を、船のように一度とどめ、傷みや揺れを確かめる』日。アルメリアでは『体舟みまもりの日』として、体を急がせる前に、座る順、休む椅子、水の杯、息の幅を整える日。
日曜の昼、フレイメル家の居間には、椅子がいつもより多く出ていた。
王立魔法学院分校も初等学舎も休みで、星粒ほいくえんも通常活動はない。朝の慌ただしさがないぶん、家の中には湿った風と、昨日より少し長い沈黙が残っている。
クリスは玄関小棚から持ってきた席間札控えを、居間の低い台へ置いた。
『座る人。聞く場所。通る道。声の幅』
その横に、ルミナが新しい札を三枚並べる。
『座る順』 『休む椅子』 『水の杯』
クリスは札をじっと見た。
「きょう、からだ、みる?」
「そうよ」ルミナが答えた。「でも、悪いところを探して決めつける日ではないの。今日の体が、休む場所を持っているか見る日ね」
「からだ、ふね?」
「長く旅をする船みたいなものね。荷物が重すぎないか、港に入る場所があるか、静かに確かめるの」
「みなと」
クリスは居間の椅子を見回した。
「いす、みなと?」
「今日は、そう考えてみましょう」
最初に動いたのはレオンだった。昨日の課題がまだ頭に残っているらしく、紙と鉛筆を持って椅子の数を数え始める。
「人間は6人。スノーは椅子には座らないけど、聞く場所は要る。昨日と同じだね。じゃあ、ぼくが表を書く」
「いやいや、年長者の体舟からだろう」アストルが胸を張った。
地下室の階段を上がってきたグレゴールが、杖の先を軽く床へ当てた。
「年長者という言葉を出したなら、わしが先だ」
ルミナは穏やかな顔で、グレゴールの足元を見た。
「義父さんは、階段を上がってきたばかりでしょう。先に休む椅子です」
「む」
グレゴールは少し不満そうにしながら、窓から直の風が当たらない椅子へ座った。
その横で、アストルが自分の椅子を台所側へ寄せる。レオンは表を書きやすいように台へ近づく。フィオナは水差しを取ろうとして、通る道でアストルの椅子に止められた。
昨日と似ている。数は合っているのに、道がない。
クリスは小さく言った。
「みなと、せまい」
ルミナは水差しを台へ戻した。
「そうね。看る前に、まず港を整えましょう」
アストルが椅子を動かそうとして、また止まった。
「俺が動かすと、またつまみ食い席にされる気がする」
「今回は水の道よ」フィオナが言った。「台所から居間まで、杯を持って通れる道を空けるの」
「水の道」
クリスは昨日の通る道札を思い出し、床を見た。台所から居間の低い台まで、まっすぐ行ける場所が一つある。そこに椅子が半分かかっていた。
「ここ、あける」
クリスが指差すと、レオンが頷いた。
「じゃあ、そこを水の道にする。椅子は線の外」
線はない。けれど、昨日の白い線を覚えているから、クリスには見える気がした。そこへ椅子を置かない。空いている場所にも、今日の役目がある。
次に、休む椅子を決めた。グレゴールは風の当たらない椅子。アストルは工房の粉を持ち込まないよう入口側。ルミナは台所へ立ちやすい席。フィオナは水差しへ手が届く席。レオンは紙を書ける席。クリスは、みんなの顔と水の杯が見える斜め前。
スノーは梁の上にいる。
「スノー、みなと?」
「俺に港はいらん」
「きくばしょ、いる」
「聞こえるなら十分だ」
クリスは梁の端を見て、小さな羽の札を置くふりをした。スノーは何も言わなかった。
椅子が決まると、家の中の声が少し低くなった。誰が先かを言い合っていた声が、椅子へ座る音に変わる。
ルミナは新しい札を一枚足した。
『待つ』
「今日は、すぐ確かめないの?」
レオンが聞く。
「座ってすぐは、息がまだ歩いているわ。階段を上がった人、椅子を動かした人、水差しを運んだ人は、少し待ってから見るの」
「いき、あるく」
クリスは自分の胸に手を当てた。息は見えない。でも、さっきより早い気がする。
「わたしも、まつ」
「えらいわ」
確認は、難しいものではなかった。
椅子に座る。肩を少し下げる。水を一口飲む。息を三つ数える。今日の体で重いところを、自分の言葉で一つだけ言う。ルミナは治癒の魔法を使わない。手をかざして決めつけもしない。ただ、聞いて、札へ書く。
グレゴールは「階段のあとに、すぐ話しすぎた」と言った。
アストルは「腰は平気だが、昨日工具箱を持ちすぎた」と言った。
フィオナは「肩が少し固い」と言った。
レオンは「足首が、昨日の軌道板をまだ覚えてる」と言った。
ルミナは自分の番になると、少しだけ黙った。
「お母さん?」
クリスが覗き込む。
ルミナは笑って、自分の杯を持ち上げた。
「私は、朝から水を飲むのを後回しにしていたわ」
「おみず、わすれた?」
「そう。だから、今日は水の杯も札に入れます」
クリスは台所へ走りかけて、足を止めた。
「はしらない。みずの道、あるく」
フィオナが水差しを持ち、クリスは空の杯を一つずつ台へ運んだ。アストルが6つ並べたあと、窓辺に小さな水皿を一つ置く。
「俺は頼んでいない」
スノーが言う。
「でも、いる」
クリスが答えると、スノーは横を向いた。水皿はそのままだった。
水を飲んで、少し待つ。待っているうちに、グレゴールの眉間のしわが薄くなった。アストルは椅子の背にもたれ、レオンは足首を無理に回すのをやめた。フィオナは肩を上げ下げしてから、紙に小さく線を引いた。
クリスは、自分の体舟が港に入るところを想像した。舟は速くない。白くも光らない。ただ、椅子のそばへ静かに寄ってくる。
「ふね、やすむ」
「休む舟ね」フィオナが言った。
ルミナはみまもり札を作った。
『座る順。休む椅子。水の杯。息の幅。待つ』
「体舟みまもりの日は、治す日?」
クリスが聞くと、ルミナは首を横に振った。
「治す前に、暮らしを整える日ね。椅子があるか、水があるか、話を聞く順番があるか。そこを見るだけで、体が楽になることもあるの」
「くらし、なおす?」
「そう。今日は暮らしを整える」
昼食のあと、クリスは札の横に小さな舟と椅子を描いた。舟は走っていない。椅子のそばで休んでいる。水の杯も一つ置いた。
「からだ、ふね。いす、みなと。みず、いる」
「いい札だね」レオンが言った。「ぼくの課題にも、水の道って書き足していいかな」
「昨日の課題が増えるわね」フィオナが笑った。
「ヒーロー心としては、助ける前に休み場所を見るのは大事だから」
アストルは杯を持ち上げた。
「父さんの研究にも必要だな。地下室へ水の杯札を貼るか」
地下室の扉の前で、グレゴールが咳払いをした。
「研究者は水を忘れても理論は忘れぬ」
「それが危ないんでしょう、義父さん」
ルミナの声は穏やかだった。けれど、アストルとレオンが同時に背筋を伸ばした。
玄関小棚へ、みまもり札控えが加わった。家息札、灯鈴札、行き戻り荷札控え、四音札控え、半箱札控え、足手逃げ道札控え、長麺札控え、冷渦札控え、芯皮札控え、切り光札控え、葉皿ほめ札控え、星紐願い札控え、戻り札預け札控え、順足札控え、糸向き札控え、席間札控え。その隣に、今日の札が入る。
小棚はいっぱいだ。けれど、昨日作った席の間みたいに、札と札のあいだには細い隙間が残っている。
夕方、灯路が窓の外で淡く光り始めた。明日はオカルト記念日。レオンが「こわい話をするなら、先に灯りの位置を決めた方がいい」と言い、クリスは少しだけ肩をすくめた。
「こわい、くる?」
「来る前に見るの」フィオナが言った。「影の向きと、音の出どころ」
クリスはみまもり札の小舟を指で撫でた。
「こわいも、すわる?」
梁の上で、スノーがみまもり札控えを見下ろし、低く言った。「体は急がせる荷車じゃねえ。座る順を見て、休む椅子を決めて、水の杯を置いて、息の幅が戻るまで待て。……明日は怖がる前に、影の向きと音の出どころを見ろ」




