7月10日(金):糸豆まぜの日
とある世界では今日は『粘る豆を混ぜ、糸の向きと器の縁を見ながら、ひと口の力を作る』日。アルメリアでは『糸豆まぜの日』として、豆を急がせず、混ぜる手を休ませ、糸が戻る道を見てから食べる日。
朝の台所で、クリスは食卓の端に置かれた小さな空鉢を覗き込んでいた。
鉢の中には、まだ何も入っていない。けれど、横には短い匙と、浅い皿と、乾いた布が置かれている。星粒ほいくえんで今日使う道具と同じ並びを、ルミナが朝のうちに家でも見せてくれたのだ。
「まぜる?」
クリスが聞くと、ルミナは短い匙を持ち上げた。
「ほいくえんでね。今日は糸豆まぜの日だから、器の縁を見て、匙を休ませる場所を決めてから混ぜるの」
「ふち、みる」
「それから、糸の向き」
レオンは初等学舎の鞄を背負いながら、昨日の順足札控えを読んだ。
「揺れる板も、糸豆も、先に向きだね。勢いだけで混ぜると、糸が器の外へ走るんじゃないかな」
「いと、はしる?」
「走るように見えると思う。走ったら、戻る道を作る」
フィオナは学院の冊子を閉じ、浅い皿を指で示した。
「混ぜたあとの匙を置く場所も、先に決めた方がいいよ。糸がついた匙を卓へ置くと、手も目も迷うから」
アストルが工房から顔を出した。
「糸豆は、混ぜれば混ぜるほど元気になるからな。お父さんみたいだ」
ルミナが振り返る。
「あなたは混ぜなくても騒がしいでしょう」
「信用がない」
梁の上で、スノーが片目だけ開けた。
「豆より先に口を粘らせるな。混ぜるなら、縁と匙置きくらい見てからにしろ」
星粒ほいくえんの昼前、低い台には小さな器が並んでいた。
星粒ほいくえんの昼食担当は、蓋付きの糸豆鉢、浅い皿、短い匙、乾いた布を一つずつ置く。糸豆は、子どもたちが少しずつ味を見るためのものだ。量は多くない。だからこそ、こぼすと昼の皿がさびしくなる。
「今日は、糸豆まぜの日です。最初に見るのは、豆ではありません」
クリスは手を挙げた。
「ふち」
「そう。器の縁です」
昼食担当は、器の縁を指で示した。糸豆の汁が、ほんの少しだけ縁に付いている。そこから混ぜ始めると、糸が外へ引っかかりやすい。
「次は、匙を置く場所」
低い台の右側に浅い皿を置く。混ぜたあとの匙を休ませる場所だ。
「そして、糸の向き」
「いと、まだない」
クリスが覗き込むと、昼食担当は頷いた。
「混ぜると出るわ。出てから慌てないように、先に道を作ります」
クリスは匙を持った。小さな匙だ。自分の手にちょうどいい。
「まぜる?」
「まず、ゆっくり3回」
クリスは言われたとおり、豆をゆっくり混ぜた。1回、2回、3回。豆の間から白い糸が出てくる。細くて、やわらかい。匙を持ち上げると、糸が器の中へ戻ろうとする。
「のびた」
「よく見えたわね」
ところが、隣の子が「もっと」と言い、向かいの子が「ぐるぐる」と言った。楽しそうな声が広がると、クリスの胸もふくらんだ。
その瞬間、糸豆の糸に、小さな光る道の幻が乗った。
糸は白いのに、クリスには銀の橋みたいに見えた。匙から器へ、器から浅い皿へ、細い道が渡る。ほんとうにはつながっていないのに、目にはつながって見える。
「いと、みち!」
クリスが嬉しくなって匙を上げると、糸が器の縁を越えた。隣の子も真似をして、匙を高く上げる。糸は伸び、縁にかかり、浅い皿の手前で止まった。
「くっついた」
「わたしのも」
声が少し大きくなる。糸豆はこぼれていない。けれど、器の縁が白くなり、匙をどこへ戻せばいいのか分からなくなった。
昼食担当は、すぐに拭かなかった。まず、両手を低く下げる。
「いったん、匙を休ませましょう」
「まだ、まぜたい」
「混ぜたい気持ちも、糸も、今は走っています」
クリスは匙を見た。糸が細く伸びている。動かすと、もっと伸びそうだった。
「いと、はしった」
「そう。だから、座らせましょう」
昼食担当は札を四枚並べた。
『器の縁』 『糸の向き』 『匙の休み場』 『待つ』
「器の縁を見る。糸がどちらへ戻りたがっているか見る。匙を皿へ休ませる。それから待つ」
「ふち。いと。さじ。まつ」
「そう」
クリスは匙を浅い皿へ置こうとした。けれど、糸が器の外へ伸びている。引っぱれば切れそうだ。切ってしまえば早い。でも、昼食担当は首を横に振った。
「切らない。戻るのを待つ」
「もどる?」
「糸は、少し待つと細くなるわ」
子どもたちは、低い台の前で待った。おひるね音箱はまだ出ていない。部屋には、豆の匂いと、窓の外の雨上がりの土の匂いが混ざっている。
伸びた糸は、すぐには戻らなかった。けれど、誰も匙を振らないでいると、銀の橋みたいな幻が薄くなった。白い糸は細くなり、器の内側へ少しずつ戻る。
クリスは息を小さくした。
「すわった」
「うん。糸が座ってきたわね」
昼食担当はそこで初めて、乾いた布を持った。器の外側をこすらない。縁にかかった白いところだけを、押さえる。拭き取るのではなく、器の中へ戻すように軽く寄せる。
「ふち、きれい」
「きれいにしたら、次は混ぜる向き」
昼食担当は匙を持って見せた。
「上へ高く持ち上げない。器の中で、丸く混ぜる。糸は外へ見せるものではなく、豆をまとめるもの」
クリスは頷いた。
「いと、なか」
「そう。糸は中」
もう一度、3回だけ混ぜる。今度は匙を高く上げない。器の中で小さく丸を描く。糸は出る。でも、縁を越えない。器の中で、豆をやさしくつないでいる。
「できた」
「できたわね」
クリスは一口だけ食べた。豆はやわらかくて、少ししょっぱくて、あとから強い匂いが鼻へ来た。顔が少しだけむずかしくなる。
「うん……つよい」
昼食担当が笑った。
「強い味ね。嫌い?」
クリスはもう一度、ほんの少し食べた。
「きらい、すこし。すき、すこし」
「それでいいわ。味も、すぐ決めなくていい」
昼食のあと、昼食担当は糸向き札を作った。
『器の縁。糸の向き。匙の休み場。待つ』
クリスはその横に、器の中へ戻る糸を描いた。外へ行く線ではなく、丸く戻る線だ。
「いと、なか」
「うん。中へ戻る線ね」
夕方、クリスは糸向き札控えを持って帰った。
玄関小棚には、順足札控えの隣に少しだけ空きがある。クリスはそこへ、糸向き札控えを置いた。家息札、灯鈴札、行き戻り荷札控え、四音札控え、半箱札控え、足手逃げ道札控え、長麺札控え、冷渦札控え、芯皮札控え、切り光札控え、葉皿ほめ札控え、星紐願い札控え、戻り札預け札控え、順足札控え。そこへ、今日の札が加わる。
レオンが読んだ。
「器の縁、糸の向き、匙の休み場、待つ。これ、ぼくの机にも必要だな。糸みたいな紐や紙片を引っぱると、だいたい外へ逃げるから」
フィオナは台所の小鉢を見て、微笑んだ。
「混ぜるものほど、休ませる場所が要るね」
アストルは糸豆を一口食べ、少し目を細めた。
「強いな。これは、走る味だ」
「走らせないの」クリスが言った。「いと、なか」
ルミナは嬉しそうに頷いた。
「そうね。味も糸も、器の中」
地下室の扉の向こうから、グレゴールの声がした。
「糸豆は、待つ技術だ。急かす者ほど、糸に負ける」
アストルが振り返る。
「父さん、糸豆の話になると急にまともだな」
「急ではない。長年待った結果だ」
夜の灯路が窓の外で淡く光り始めた。明日は世界人口デー。レオンが、初等学舎で人数を数える活動があると言っていた。クリスは糸向き札を見てから、食卓の椅子を一つずつ数えた。
「ひとり、ひとつ?」
「明日は、数える前に席の間を見る日かな」フィオナが言った。
梁の上で、スノーが糸向き札控えを見下ろし、嘴を小さく鳴らした。「粘るものを力で切るな。器の縁を見て、糸の向きを見て、匙の休み場を作って待て。……明日は数える前に、席の間と声の届く幅を見ろ」




