7月9日(木):軌道板の順足の日
とある世界では今日は『高く上がって低く降りる乗り物に、胸の奥まで揺らされる』日。アルメリアでは『軌道板の順足の日』として、揺れる板に乗る前に、乗る向き、待つ場所、降りる足を確かめ、速さより先に戻る道を整える日。
朝の玄関で、クリスは戻り札預け札控えを両手で押さえていた。
『持ち主。戻る時刻。戻る場所』
昨日、願いの短冊はちゃんと戻ってきた。玄関の籠に入っている短冊は、紙の端がまっすぐで、昨日より少し背筋が伸びているみたいに見える。
「きょう、ゆれる?」
クリスが聞くと、レオンが靴紐を結びながら顔を上げた。
「うん。ほいくえんから歩いて行く、小さな遊び場の軌道板だろ。低い板だけど、乗る向きと降りる足を混ぜると、足が迷う」
「まちの、はしっこ?」
「町外れって呼んでるだけで、遠くはないよ。生活担当の先生と一緒に行くんだよね」
「うん。て、つなぐ」
フィオナは学院の鞄を肩に掛けながら、短く言った。
「揺れるものは、止まって見えるときと、動き出したあとで違うから。乗る前に、板の上を見るの」
「うごくまえ、みる」
ルミナは小さな手拭いをクリスの鞄へ入れた。
「雨上がりだから、板の上に水筋が残っているかもしれないわ。足を置く前に、光っている筋がないか見るのよ」
「みずすじ」
「それから、降りる足」
クリスは自分の右足と左足を交互に見た。
「どっち?」
「今日は、見てから決めましょう」
梁の上で、スノーが片方の翼を少し持ち上げた。
「決めてから見るな。見る前に決めるから、人間は板にも足にも文句を言うんだ」
星粒ほいくえんの昼前、年中組は町外れの小さな遊び場へ向かった。
遊び場は星粒ほいくえんから徒歩7分ほどの場所にある。商店街の裏道を抜け、低い石垣の横を曲がった先の草地だ。町外れとは言っても、灯路番所へ向かう道の手前で、大人の目が届く場所にある。
星粒ほいくえんの生活担当は、先頭で歩きながら言った。
「今日は走りません。手をつなぎます。遊び場へ着いたら、最初に待つ場所を見ます」
「まつばしょ」
クリスは隣の子の手を握り直した。
遊び場の端には、低い軌道板が置かれている。木の浅い溝に沿って、小さな足台が半歩ぶんだけ前後に動く遊具だ。高く上がらない。速く走らない。けれど、足台に乗ると、少しだけ坂を下りるような気持ちになる。
雨上がりの水筋が、板の木目に沿って細く走っていた。
クリスがそれを見て、思わず言った。
「しゅーって、いく」
その瞬間、木目の上に銀色の細い線が浮いた。線は板の端から端へ伸び、まるで小さな道のように見える。
「みち!」
隣の子が声を上げた。向かいの子も足を出す。
「こっちから、のる!」
「ちがう、こっち!」
楽しい気持ちは、声より先に走った。クリスの目には、低い板が長い坂のように見えた。ほんとうは半歩ぶんしか動かない足台なのに、銀の線がつくと、ずっと遠くまで進めそうに思えてくる。
ふたりが反対側から乗ろうとして、足台が小さく傾いた。
クリスも慌てて片足を出した。けれど、どちらの足から降りればいいのか分からない。足台は大きくは揺れない。それでも、迷った足は小さくすくむ。
「とまった」
クリスが言った。
足台は止まっていない。ゆっくり揺れている。ただ、クリスの足だけが止まっている。
生活担当は、声を荒げなかった。まず両手を見える高さに上げる。
「いったん、板を休ませましょう」
子どもたちは足台から降りた。生活担当は、誰の足も急がせない。片足ずつ、地面へ戻す。右足、左足。降りる足を言葉にしてから降りる。
クリスも、生活担当の手を見て、ゆっくり足を下ろした。
「みぎ。ひだり」
「よく見たわね」
足台は、誰も乗らなくなってからも少し揺れた。揺れるものは、すぐには止まらない。さっきの楽しさも、すぐには止まらない。
生活担当は、土の上に札を四枚並べた。
『乗る向き』 『待つ場所』 『降りる足』 『戻る道』
「今日は、速く乗る日ではありません。乗る前に向きを見る日です」
クリスは銀色の線を見た。まだ板の上にある。でも、さっきより薄い。
「みち、ある」
「見える道と、本当に足を置く道は、分けましょう」
生活担当は、軌道板の手前を指で示した。
「乗る場所は、こちら。降りる場所は、向こう。待つ場所は、白い石の線の外。戻る道は、板の横」
「まんなか、だめ?」
「真ん中は、動く場所。待つ場所にはしない」
レオンが言っていた。乗る向きと降りる足。フィオナが言っていた。止まって見えるときと、動いたあとでは違う。ルミナが言っていた。水筋を見る。
クリスは板の上を覗いた。
水筋が、まだ残っている。
「みず、いる」
「そうね。水筋があるうちは、足がすべるかもしれない。拭く前に、どちらへ流れているか見ましょう」
生活担当は乾いた布で、いきなり全部をこすらなかった。板の端に布を置き、水がどちらへ動くか見る。細い水筋は、左の端へ少しずつ寄った。足台はまだほんの少し傾いている。
「いた、かたむく」
「だから、休ませる」
生活担当は足台の下を覗いた。小さな砂粒が一つ、溝の縁に挟まっている。短い刷毛で外へ寄せる。魔法は使わない。足台を押さえつけもしない。止めるのではなく、止まれるようにするだけだ。
銀色の線は、子どもたちが黙って見ているうちに、少しずつ木目へ戻っていった。
「みち、すわった」
クリスが言うと、生活担当は微笑んだ。
「楽しさが座ったのね」
足台の揺れが小さくなり、水筋も端で止まった。生活担当は、そこで初めて布を動かした。端から端へこするのではなく、水が集まった場所だけを押さえる。木目に沿って、軽く吸わせる。
「では、一人ずつ試しましょう。走りません。跳ねません。乗る足を言って、降りる足を言います」
最初の子が乗る。
「みぎで、のる。ひだりで、おりる」
足台はゆっくり動き、ゆっくり戻った。
次の子が乗る。
「ひだりで、のる。みぎで、おりる」
戻る道は、板の横。待つ子は白い石の線の外。誰も真ん中で待たない。
クリスの番が来た。
板の上には、もう銀色の線はない。けれど、木目がまっすぐ見える。そのまっすぐを見ていると、胸の中の「しゅーって、いく」も少しだけ落ち着いた。
「みぎで、のる」
クリスは右足を置いた。足台が少し前へ動く。両手を広げる。生活担当は手を出さない。ただ、見ている。
「ひだりで、おりる」
左足を地面へ戻す。右足も戻る。足台は小さく揺れて、止まった。
「できた」
「できたわね」
クリスは嬉しくなった。でも、今度は銀色の線は出なかった。嬉しさが走らず、足の下で座っている感じがした。
昼食の前、生活担当は順足札を一枚作った。
『乗る向き。待つ場所。降りる足。戻る道』
クリスはその横に、右足と左足の丸を描いた。右は少し大きく、左は少し小さい。
「まる、ちがう」
「足も違うもの。違うから、見るの」
「ちがうから、みる」
夕方、クリスは順足札控えを持って帰った。
玄関小棚の札は、また一枚増えた。戻り札預け札控えの隣へ、順足札控えを置く。レオンがそれを読んで、腕を組んだ。
「乗る向き、待つ場所、降りる足、戻る道。これ、ぼくの風の練習にも使える。勢いをつける前に、止まる場所を決めておかないと、ただの突進になるから」
「それに気づいたなら、練習場の札も作りましょうね」ルミナが言った。
アストルは工房の踏み台を見た。
「俺の踏み台にも要るな。工具を持って乗るとき、降りる足を決めてないと危ない」
グレゴールが地下室の扉を少し開けた。
「揺れる板は、古代にもあった。教育具としては優秀だ。油断を教える」
「油断を教えちゃだめだろ、父さん」
フィオナは笑いながら、クリスの丸を見た。
「右と左、ちゃんと違ってる。違ってるから、次も見られるね」
クリスは頷いた。
「ちがうから、みる。ゆれるまえ、みる」
夜の灯路が、窓の外で淡く光り始めた。明日は納豆の日。台所には、ルミナが用意した豆の小鉢が水に浸かっている。クリスはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「まぜるまえ、みる?」
「明日は、混ぜる前に糸の向きね」フィオナが言った。
梁の上で、スノーが順足札控えを見下ろし、低く笑った。「速さに目を取られるな。乗る向き、待つ場所、降りる足、戻る道を先に見ろ。……明日は混ぜる前に、糸の向きと器の縁を見ろ」




