7月8日(水):戻り札預けの日
とある世界では今日は『大切な品を一度預け、戻す約束を札にして確かめる』日。アルメリアでは『戻り札預けの日』として、預けるものに持ち主、戻る時刻、戻る場所を添え、手放すのではなく帰り道を整える日。
朝の玄関小棚で、クリスは昨日の星紐願い札を見ていた。
『紙を見る。紐を見る。枝を見る。待つ』
その隣には、葉皿ほめ札がある。家息札も、灯鈴札も、長麺札も、切り光札も、少しずつ端をそろえて並んでいる。小棚はもうにぎやかで、札たちが小さな町みたいだった。
「きょう、なに、みる?」
クリスが聞くと、ルミナは鞄の口を整えながら答えた。
「今日は、預ける前に見る日よ。持ち主札と、戻る時刻」
「もどる、とき」
「それから、戻る場所」
レオンは初等学舎の鞄を背負い、昨日の短冊をちらりと見た。
「預けるって、なくすことじゃないんだよ。戻ってくる道を先に作ること。ぼくの荷札も、行く場所だけだと足りなかったから」
「もどる、みち」
クリスは自分の手を見た。昨日は、紙の重さを見て、紐の余りを残した。今日は、持ったものを離す前に、戻る道を見る。
フィオナは学院の薄い冊子を抱え、玄関小棚の札を少しだけ寄せた。
「星粒ほいくえんでは、昨日の七夕飾りを昼の間だけ預け棚で休ませるんだよね。乾ききっていない紙は、すぐ鞄に入れると曲がるから」
「わたしの、ねがい、もどる?」
「戻る。戻すために、札を書くの」
アストルが工房から顔を出した。
「お父さんが預けられるなら、『持ち主アストル、戻る時刻は夕飯前、戻る場所は台所』だな」
ルミナが笑顔のまま振り返った。
「あなたを台所に預けたら、戻る前に何かつまみ食いするでしょう」
「信用がない」
梁の上で、スノーが片目だけ開けた。
「信用ってのは、戻る時刻を守ってから言え。口で戻ると言うだけなら、風でもできる」
星粒ほいくえんの昼前の部屋には、昨日の青笹飾りが置かれていた。
短冊は一晩で少し乾いたけれど、雨上がりの湿りを吸った紙は、端がまだ重い。青笹の葉も、ところどころ下を向いている。すぐ持ち帰ると、鞄の中で曲がる。だから今日は、昼の間だけ園の預け棚に置き、迎えの時刻にそれぞれ戻すことになっていた。
星粒ほいくえんの生活担当は、低い台の上に三種類の札を並べた。
『だれの』 『いつもどる』 『どこへもどる』
その横には、浅い木箱が三つある。預け棚に入れるための箱だ。
「今日は、願い飾りを一度預けます。預けるものは、戻る道を書いてから箱へ入れます」
クリスは自分の短冊を探した。
『かぞくが わらう』
白い紙の端は少し丸まり、紐の余りは昨日のまま下へ垂れている。ちゃんと座っている。けれど、隣の子の短冊と近くて、紐が触れそうだった。
「わたしの、ここ」
「では、持ち主札を書きましょう」
生活担当が小さな札を渡す。クリスは自分の名前を書こうとして、最初の線を大きく曲げた。生活担当が横に読みを添える。
『クリス』
次に、戻る時刻札を書く。
「おむかえ」
「迎えの時刻は、何時かしら」
クリスは首を傾げた。
「お母さん、くる」
「お母さんが来るのは、16時30分ね」
「じゅうろく、さんじゅう」
生活担当が数字を書き、クリスはその横に小さな丸を描いた。丸は迎えの印だ。
最後に、戻る場所札。
「おうち」
「おうちの、どこへ戻す?」
クリスは考えた。玄関小棚は札でいっぱいだ。短冊は大きいから、小棚には乗らない。
「げんかんの、かご」
「そうね。玄関の籠」
三枚の札がそろった。クリスは嬉しくなって、持ち主札と戻る時刻札と戻る場所札を、全部同じ青い紐で結ぼうとした。
ところが、三枚を一緒に結ぶと、札の向きが重なって読めなくなった。
「みえない」
「三枚まとめると、どれが何の札か隠れるわね」
「いっこにしたい」
「一つにしたい気持ちは分かるけれど、役目は分けましょう」
生活担当は、札を左から順に置いた。
持ち主札。戻る時刻札。戻る場所札。
「読む順番に置いてから、短い輪で箱の内側に留めます。外側に貼ると、棚へ入れるときにこすれて落ちるから」
クリスは頷いた。けれど、ほかの子どもたちも同じように「一つにしたい」と思ったらしい。かわいい色紐でまとめた札が、箱の中でいくつも重なっている。持ち主札だけ見えるもの。時刻だけ見えるもの。戻る場所が裏返ったもの。
預け箱の中が、少しずつ分からなくなっていった。
「これ、だれの?」
「ぼくの?」
「ちがう。わたしの」
声が少し大きくなる。青笹の葉が揺れ、短冊が互いに触れた。
生活担当は箱へ手を入れず、まず蓋を半分だけ閉じた。
「止まりましょう」
部屋が静かになった。
「預ける箱は、急いで閉めると戻る道が迷います。全部出して、順番を作り直しましょう」
低い台へ白い布を広げる。預け箱の中身を一つずつ出し、短冊は布の上、札は台の上、余った紐は浅い皿へ分けた。
クリスは自分の短冊を見つけた。
「これ、わたし」
「持ち主札は?」
「ここ」
「戻る時刻は?」
「16時30分」
「戻る場所は?」
「げんかんの、かご」
生活担当は頷き、預け台帳を開いた。台帳には、三つの欄がある。
持ち主。戻る時刻。戻る場所。
「台帳にも同じことを書きます。札が一枚落ちても、台帳を見れば戻せるように」
「ふたつ、ある」
「そう。札と控え」
クリスはその言葉を覚えた。札と控え。家の玄関小棚にも、いつも控えがある。戻るための、もう一つの道だ。
ほかの子どもたちの短冊も、同じように分けた。持ち主札は短冊の上。戻る時刻札は右。戻る場所札はその下。読み終わったら、箱の内側の低い位置へ留める。三枚を重ねず、順番に置く。
「どうして、箱の中?」
クリスが聞くと、生活担当は箱の縁を指で撫でた。
「預ける間、札も品物の一部だから。外へ出しっぱなしにしない」
「ふだも、あずかる」
「そう。札も預かる」
三つの箱が整うころ、青笹の枝は静かになっていた。短冊も触れ合わない。預け箱は棚へ入れられ、台帳の控えだけが生活担当の手元に残った。
昼食のあと、子どもたちは預け棚を見に行った。
棚は保育室の隣、窓の風が直接当たらない場所にある。上段は軽い飾り、中段は短冊、下段は枝付きのもの。星粒ほいくえんの生活担当は、棚の札を一つずつ読んでから箱を置いた。
「上段、軽い飾り。中段、短冊。下段、枝付き」
クリスは自分の箱が中段に入るのを見た。
「ここ、もどる?」
「ここで休んで、16時30分に玄関の籠へ戻るわ」
「もどるみち、ある」
そう言うと、手の中が少し軽くなった。短冊が離れても、なくなった感じではない。戻る時刻を知っているから、心の中までは空っぽにならない。
おひるね音箱が、小さく水辺の音を流し始めた。眠らせる魔法ではなく、部屋を静かにする音だ。クリスはその音を聞きながら、預け棚の中段をもう一度見た。
夕方、ルミナが迎えに来るころには、短冊はすっかり乾いていた。
生活担当は台帳を見て、箱の内側の札と照合する。
「クリス。戻る時刻、16時30分。戻る場所、玄関の籠」
「はい」
クリスは両手で短冊を受け取った。
「おかえり」
短冊は返事をしない。けれど、紙の端は朝より軽く、昨日より少しまっすぐだった。
家に帰ると、クリスは玄関の籠へ短冊を入れた。それから、星粒ほいくえんでもらった戻り札預け札控えを、玄関小棚へ足した。
レオンが札を読んだ。
「持ち主、戻る時刻、戻る場所。これ、ぼくの道具箱にも要るな。貸したものが戻らないとき、だいたい戻る場所を書いてない」
フィオナは短冊の乾き具合を見て、そっと頷いた。
「願いも、預けものも、戻る道があると落ち着くね」
アストルは自分の工具箱をちらりと見た。
「父さんに貸した道具が戻らない理由も、これか」
地下室の扉の向こうから、グレゴールの声がした。
「研究のために一時預かりしているだけだ」
ルミナは笑って、台所へ向かった。
「では、義父さんの戻る時刻札も作りましょうか」
クリスは短冊をもう一度見た。
「もどった」
夜の灯路が窓の外で淡く光り始める。明日は、町外れの遊び場で揺れる板を点検する日だと、レオンが言っていた。クリスは短冊の紐を触り、今日の札を小棚にまっすぐ置いた。
梁の上で、スノーが戻り札預け札控えを見下ろし、嘴を鳴らした。「預けるってのは手放すことじゃねえ。持ち主と時刻と戻る場所を書いて、帰り道まで一緒に預けることだ。……明日は揺れる前に、乗る向きと降りる足を見ろ」




