7月5日(日):切り光杯の日
とある世界では今日は『細かな刻みを入れた硝子の器に、光と影を通して楽しむ』日。アルメリアでは『切り光杯の日』として、光る器を回す前に、刻み目と影の向き、置く布と持つ手の位置を確かめる日。
日曜の夜、フレイメル家の居間には、町の回覧箱が置かれていた。
箱の蓋には、町の硝子職人の印が押されている。昼のあいだに通りの家々を回り、最後にフレイメル家へ届いたものだ。中には、透明な切り光杯と、小さな回し台が入っていた。
外の灯路は、雨上がりの石畳を淡く照らしている。七月最初の日曜が終わりかけているのに、空気にはまだ梅雨の湿りが残っていた。
「きらきら、みる?」クリスが箱の横で膝をそろえた。
「見る。でも、まだ持たない」レオンは言った。
昨日、スノーが言った。光る器を急いで回す前に、切り口と影の向きを見ろ。
フィオナは箱の底布を指で押さえた。「底布、少し湿ってる。これだと台座が滑るかもしれない」
ルミナが乾いた布を持ってきた。「きれいなものほど、手が先に出るのね」
「だから、手より前に場所を作る」
レオンは小さな紙を4枚切った。
『杯』 『台座』 『影札』 『指置き』
クリスが首をかしげる。「ゆびおき?」
「どこを持つかの場所。刻み目の近くを持つと、指も影も迷う」
「ゆび、まよう」
「うん。今日は迷わせない」
まず、杯を箱から出す前に、机の上へ乾いた布を広げた。昨日の水甘実で使った支え輪の型は台所引き出しへ戻してある。今日は丸い実ではなく、透明な杯だ。支える形も変えなければいけない。
レオンは厚めの布を小さく折り、杯を寝かせず置ける浅い輪を作った。フィオナが横から見て、輪の高さを少し下げる。
「高いと、底が浮く」
「低すぎると、刻み目が机に当たる」
「真ん中だね」
「うん。真ん中」
アストルが杯を持ち上げようとして、レオンに見られた。
「お父さん、先に台座」
「はい」
台座は小さな丸い板と細い軸でできていた。杯を置き、ゆっくり回すと、灯りを受けた影が壁に動く仕組みだ。けれど軸の右側に白い粉がついている。硝子ではなく、乾いた布のほつれと、湿った木粉が混ざったものだった。
「回す前に止めてよかった。このまま回すと、がたがたする」
クリスが少しだけ身を引いた。「がたがた、いや」
「今日は、いやになる前に直す」
フィオナが小皿を2枚出した。1枚は台座の小ねじ用。もう1枚は古い底布とほつれ用。レオンは杯には触れず、まず台座の小ねじを外した。軸を引き抜くのではなく、少し浮かせるだけにする。無理に外すと、戻す角度が分からなくなる。
「全部外すと、戻る場所が消える。今日は浮かせて拭く」
レオンは乾いた刷毛で白い粉を掃き、細く折った布で軸を一度だけ拭いた。油は使わない。硝子の杯に移れば、光が曇るからだ。
「油はだめ。乾いたまま、当たりだけ見る」
ルミナは箱の底布を新しい布へ替え、古い布を乾き棚へ回した。フィオナは影札を見ていた。回覧箱の内側に貼られた小さな札が、湿りで半分はがれている。
『灯りは左。影は右壁。強く回さない』
「これ、はがれたままだと向きが分からない」
「貼り直す。けど、先に向きを確かめる」
レオンは台座を戻し、杯を浅い布輪に置いた。アストルが灯りを少し左へ寄せる。ルミナが居間の戸を少し閉め、風を弱める。クリスは座布の上に座り、両手を膝に置いた。
「待つ手、できてる」
「うん。今日は待つ目も大事」
「まつめ」
「まぶしくなったら、目を細くする。近づかない目」
レオンは杯を台座にのせた。刻み目が灯りを受け、壁に細い影を作る。けれど最初の影は、壁ではなく玄関小棚の札の上へ落ちた。半箱札と芯皮札の文字が、光で白く跳ねる。
「こっちはだめ」フィオナが言った。「札が読みにくくなる」
「影の逃げ場がない」
レオンは台座を半歩だけ右へ動かした。灯りは左、影は居間の空いた壁。足元の紐や玄関小棚にかからない場所を選ぶ。
もう一度、杯を回す。今度は、刻み目の影が壁に細く並んだ。小さな粒のような影が、静かに続いている。きれいだけれど、強くはない。目を近づけなくても見える。
クリスが息を小さく吸った。「ほし、みたい」
「近づかないで見えるなら、いい場所」
アストルが台座を回そうとして、今度は自分で手を止めた。「強く回さない、だな」
「うん。影が走ると、目が追いかける」
グレゴールが地下室の扉から顔を出した。「光は、物より先に人を動かす。影の逃げ場を決めておけ」
「おじいちゃん、今日はちょうどいい長さ」
「いつもそのつもりだ」
杯をゆっくり回すと、壁の影もゆっくり移った。クリスは座ったまま見ている。フィオナは影札の新しい位置を確かめ、ルミナは古い底布を別の布と混ぜないよう乾き棚の端へ置いた。アストルは台座の小ねじを締め直す。強く締めない。右、左、右の順に、少しずつ。
「これで、回す道はまっすぐ」
「影の道もまっすぐ」クリスが言った。
レオンは切り光札を書いた。
『杯を出す前に、乾いた布を敷く』 『台座の軸は、油を使わず拭く』 『影は空いた壁へ逃がす』 『指は刻み目ではなく、底の下を支える』 『刻み目を指でなぞらない』
クリスは自分の指を背中へ隠した。「なぞらない」
「うん。見るだけ」
家族は少しのあいだ、壁の影を眺めた。七月五日の夜は、冷たい菓子のように明るくはなく、水甘実のように甘くもない。けれど、光が細かく分かれて、壁に静かに座る。分かれたものが、また一つの模様に見える。
「切るって、壊すことじゃないんだね」フィオナが言った。
「うん。向きと場所があれば、刻み目も光になる」
見終わると、杯は回覧箱へ戻した。底布は新しく替えたまま、古い布は乾いてから洗い布へ回す。影札は箱の内側へ貼り直し、台座の軸は軽く回ることをもう一度確かめた。切り光札の控えは玄関小棚へ。回覧箱は、翌朝の返却籠へ置いた。
玄関小棚には、家息札、半箱札、足手逃げ道札、長麺札、冷渦札、芯皮札、そして今日の切り光札が並ぶ。Week27の札は、家族の会話の形で少しずつ増えた。音、箱、足元、湯、冷たさ、甘い実、光る器。全部違うのに、どれも置き場所を探していた。
夜の灯路が、窓の外で細く続いている。明日は月曜。学院も、初等学舎も、星粒ほいくえんもある。食卓には、葉ものを洗うための浅い籠が、もう台所の端で乾いていた。
梁の上で、スノーが切り光札を見下ろした。「光はきれいな顔で目を先に連れていく。杯を回す前に、影の逃げ場と指の置き場を読め。……明日は葉を盛る前に、水の切れ目と皿の底を見ろ」




