6月25日(木):住み角直しの日
とある世界では今日は『住まいを支える職人の手と、家の小さな困りごとを見直す』日。アルメリアでは『住み角直しの日』として、壁や棚や戸口の角を外から眺めるだけでなく、中に湿りや詰まりが残っていないかを確かめる日。
初等学舎の昼休み、廊下の端に小さな家が置かれていた。
本当の家ではない。腰の高さほどの木箱で、屋根があり、壁があり、小さな戸口と棚までついている。アストルが朝から初等学舎へ運び込んだ「住み角見本箱」だ。
「今日は住宅デーだからな。家ってのは、外からまっすぐ見えるだけじゃ足りない。中の角が湿っていたら、戸も棚も言うことを聞かなくなる」
アストルがそう説明すると、初等学舎の低学年の子たちは、興味津々で見本箱をのぞき込んだ。
レオンは少し離れて腕を組んでいた。昨日の映り札のことが、まだ頭に残っている。空を騒ぐ前に窓を拭く。見たものを、外と中に分ける。
そして、今朝から胸に残っているスノーの言葉。
住む場所の角を、外からじゃなく中から見ろ。
「レオン、こっち手伝ってくれ」アストルが工具布を広げながら呼んだ。「父さんは説明役で手が足りない」
「うん」
レオンは前へ出た。けれど、すぐ工具を持たなかった。まず、見本箱を一周する。外側の角はきれいだ。屋根の線も、壁の板も、まっすぐに見える。
初等学舎の工作担当が、小さな戸を開けようとした。
戸は、半分まで開いたところで止まった。
「あれ?」
工作担当が手を離すと、戸は少し戻り、斜めのまま固まった。低学年の子たちが一斉に息を飲む。
「こわれた?」
「お父さん、朝は動いてた?」
「動いてた」アストルは額をかいた。「ただ、廊下が思ったより湿ってるな。運んでから少し膨らんだか」
レオンは戸の外側を見た。蝶番は外れていない。戸板も割れていない。外から見えるところだけなら、何も悪くない。
「外はまっすぐ。でも、中が見えてない」
アストルが少し笑った。「今日の題にぴったりだな」
レオンは笑わなかった。直るまで笑うのは早い。見本箱は小さいけれど、低学年の子たちはこれで家の角を学ぶ。ここで力任せに直せば、力任せに開ける癖だけが残ってしまう。
「まず、棚を空ける」
「棚?」
低学年の子が首をかしげる。
「戸口の中に小さな棚がある。そこに道具が入ったままだと、奥の角が見えない」
レオンは見本箱の中から、小さな木皿、布切れ、飾り釘の見本を一つずつ取り出した。混ぜないように、布の上へ左から順に並べる。工作担当が浅い皿を二枚出し、レオンは金具用と木片用に分けた。
「家の中を見るときは、先にものを出す。入ったままだと、角じゃなくて荷物を見ることになる」
低学年の子が真面目に頷いた。「にもつ、まぜない」
「そう。戻すから、順番も残す」
棚が空くと、奥の内角が見えた。そこに、薄い当て木が一枚、少し浮いている。梅雨の湿りを吸って膨らみ、戸の内側へほんの少しだけ出ていた。その出っぱりが、戸を途中で止めている。
「原因、これだ」
レオンは指で触ろうとして、止めた。触る前に、湿りを見る。乾いた紙を当て木の下へ差し込むと、紙の端が少しだけ重くなった。
「湿ってる。押したら、もっと詰まる」
アストルは工具布から細い木べらと短い刷毛を出した。「どうする?」
「外さないで、先に乾かす。外すと形が戻らなくなるかもしれない」
「いい判断だ」
レオンは細い紙縒りを作り、当て木の下の隙間へそっと入れた。押し込まず、奥の湿りだけを吸わせる。次に刷毛で、角に溜まった木粉を外へ掃いた。湿った木粉は、小さな塊になっている。これが戸口の内側へ寄って、さらに隙間を狭くしていた。
低学年の子が、息を潜めて見ている。
「なんで、外から見えなかったの?」
「外の角は、外の顔だから。中の角は、中に入ってから見ないと分からない」
「家、顔いっぱいある?」
レオンは少し考えてから答えた。「ある。戸口の顔、棚の顔、床の顔。住む人が触るところは、みんな顔みたいなものだと思う」
アストルが口元を押さえた。「いいこと言うな」
「今、からかわないで」
「からかってない。職人の顔をしてたから」
レオンは耳が熱くなったが、作業に戻った。
当て木の湿りが少し抜けたところで、レオンは小さな紙やすりを取った。削るのではなく、膨らんだ表面だけをならす。力を入れすぎれば、隙間が広がりすぎる。広すぎる隙間は、今度は風と埃を呼ぶ。
「ならすだけ。短くしない」
「昨日の白柱と同じだね」と低学年の子が言った。
覚えていたのが嬉しくて、レオンは少し笑った。「そう。短くするんじゃなくて、戻す」
当て木の表面をならし、乾いた布で拭く。次に戸を少しだけ動かした。まだ、かすかに当たる。
「蝶番も見る」
蝶番の下の小ねじが、ほんの少し斜めになっていた。運ぶときに揺れて、締まりが偏ったのだろう。レオンは右、左、右の順に、少しずつ締め直した。おととい、静名灯の丸棒で覚えた手順だ。片側だけ強く締めると、まっすぐ見えても動きが曲がる。
「これで試す」
レオンは戸の取っ手に指をかけた。強く引かない。家に住む人は、毎日強く引くわけではない。普通に触って、普通に開くのがいい。
戸は、すっと開いた。
低学年の子たちが声を上げかけて、工作担当に目で止められた。廊下だから大きな声は出さない。それでも、嬉しさは顔に出る。
「開いた!」
「中の角だったんだ」
「外からじゃ分からないね」
レオンは頷き、今度は棚を戻した。木皿、布切れ、飾り釘の見本。出した順番と逆に、奥から戻す。最後に、小さな札を三枚書いた。
『外角を見る』 『中を空ける』 『内角を拭いてから、戸を動かす』
工作担当が札を読んだ。「これは、見本箱の横に貼っておきましょう」
「あと、一枚」
レオンはもう一枚、短く書いた。
『隙間は、なくすものじゃなくて、息の道』
アストルが黙った。
レオンは顔を上げた。「変?」
「いや。父さんより職人っぽい」
「それ、ほめてる?」
「もちろん」
低学年の子が、見本箱の戸をそっと開けた。今度は止まらない。小さな家の中に昼の光が入り、棚の角まで届いた。湿りが抜けたせいか、木の匂いが少しだけ軽くなっている。
昼休みの終わりに、見本箱は廊下の壁際へ戻された。工作担当が「午後の授業でも見せます」と言い、アストルは工具布を畳んだ。
「レオン、控え札を持って帰れ。家の玄関小棚にも、似た札が増えてきただろ」
「うん。住み角札にする」
「今日のは、家でも役に立つ」
その言葉を聞いて、レオンはフレイメル家の玄関を思い浮かべた。問答錠、灯鈴札、家息札、床格子、風見糸。毎日見ている場所なのに、内側の角までは見ていないかもしれない。
放課後、家に帰ると、クリスが玄関で靴を脱いでいた。片方だけ、かかとが少し斜めになっている。
「クリス、靴、そこで止まってる」
「ぬげないの。ここ、ひっかかる」
レオンはしゃがみ込んだ。靴の外側は何ともない。けれど中をのぞくと、かかとの内側に小さな砂粒が湿って張り付いていた。
「外からじゃなく、中から見る日だ」
「なか?」
「うん。足の家だから」
クリスは目を丸くした。「くつ、おうち?」
「足が住むところ」
「じゃあ、くつも、すみかど?」
「そう」
レオンは乾いた布で靴の中を拭き、小さな砂粒を外へ出した。クリスがもう一度足を入れると、今度はすんなり入った。
「なおった。お兄ちゃん、すごい」
「今日は家の日だからね」
居間では、フィオナが玄関小棚の札を整理していた。映り札、静名札、白柱戻し札、灯鈴札、家息札。その横へ、レオンは今日の住み角札を置いた。
フィオナが読む。「隙間は、なくすものじゃなくて、息の道。……いいね」
「お父さんにも、職人っぽいって言われた」
アストルが後ろから入ってきた。「言った。かなり言った」
ルミナは濡れた靴底用の布を替えながら微笑んだ。「住む場所は、人だけじゃなくて道具にもあるものね」
グレゴールは札を覗き込み、眼鏡の奥を細めた。「隙間を全部詰める者は、次に膨らむ場所を見失う。まあ、初等学舎の5年生としては上々だ」
「おじいちゃん、それ、ほめてる?」
「もちろんだ」
レオンは少し笑った。アストルと同じ返事なのが、何だか可笑しかった。
夜、灯路が窓の外で淡く光り始めた。フレイメル家の玄関小棚には、ここ数日の札が並んでいる。転がす道、名前の道、映る窓、住む角。どれも違うのに、どれも中を見てから直す話だった。
梁の上で、スノーが住み角札を見下ろし、片目を細めた。「家ってのは壁だけじゃねえ。足も道具も気持ちも、住む場所の角から詰まる。明日は湯気の逃げ道を、外からじゃなく底から見ろ」




