6月26日(金):露湯底見の日
とある世界では今日は『空の下で湯につかり、湯の恵みに感謝する』日。アルメリアでは『露湯底見の日』として、外の風に開いた湯を楽しむ前に、湯気の逃げ道と底の溝を確かめる日。
金曜の昼下がり、初等学舎の生活見学で、レオンたち5年生は低学年の見守り役も兼ねて湯屋「白陶の湯」へ向かった。
雨は降っていない。けれど石畳の端はまだ黒く、湯屋の白い壁には梅雨の湿りが薄く残っている。入口には、春に作った湯前札と上がり札が、今も棚の段を分けて掛かっていた。
レオンはそれを見るだけで、少し嬉しくなった。前に作った札が、今日も誰かの手を迷わせずに働いている。
白陶の湯の湯番が、外庭へ続く戸を開けた。「今日は露湯底見の日です。外の湯は気持ちがいいですが、空へ開いているぶん、葉も砂も入りやすい。入る前の手入れが大事なんですよ」
外庭の小さな湯船から、湯気がふわりと上がっていた。屋根はなく、周りは低い白壁で囲まれている。雨上がりの空が湯面に映り、庭石の間から細い草が顔を出していた。
初等学舎の生活担当が、子どもたちを石段の手前で止めた。「今日は見学です。湯には入りません。熱いところへ手を出さないように」
「はい」
レオンも返事をした。けれど、すぐに眉を寄せた。
湯気の上がり方が、妙だった。
湯船の真ん中からまっすぐ上がるのではなく、右奥にだけ白くこもっている。風がないのに、湯気が壁際で丸く溜まっていた。
低学年の子が小さく言った。「けむり、にげないね」
「湯気だよ。でも、逃げてないのは合ってる」
レオンは、昨日のスノーの言葉を思い出した。
湯気の逃げ道を、外からじゃなく底から見ろ。
湯番は湯船の上に掛けていた細い竹簀を直そうとした。「上の簀を少しずらせば、風が抜けるかな」
「待ってください」レオンは一歩だけ前に出た。「上じゃなくて、底を見てもいいですか」
湯番は目を丸くした。「底?」
「湯気が右奥で止まっています。上が詰まっているなら全体が白くなるはずです。でも片側だけなら、下の逃げ湯の道が遅れているかもしれません」
生活担当が頷いた。「湯を止めて、安全な縁だけにしましょう」
湯番は湯口に湯止め札を掛け、湯の流れを細くした。レオンは湯船に手を入れない。湯番が長い柄の温度杓で湯を寄せ、作業できる縁だけを冷まし布で押さえる。
湯面が落ち着くと、右奥の底にある小さな木簀が見えた。湯船の底から余った湯を逃がすための簀だ。白い湯の花と、雨で落ちた細い葉が、その隙間に絡んでいた。
「やっぱり底だ」
レオンは膝をつき、湯番から受け取った長い木べらで、簀の端を少しだけ持ち上げた。熱い湯が残っているので、指は近づけない。生活担当が横で子どもたちを下げる。
「何が入ってるの?」
「湯の花と葉っぱ。湯の花は悪いものじゃない。でも、葉と混ざって固まると、湯の逃げ道をふさぐ」
「とったら、湯の花なくなる?」
「全部取らない。溝を止めている分だけ分ける」
レオンは木べらで白い塊を外へ寄せた。湯番が浅い陶皿を差し出す。白い湯の花、細い葉、砂粒。それぞれを同じ皿の中で山に分ける。混ぜたまま捨てると、あとで何が詰まったのか分からなくなる。
次に、底溝を短い刷毛で掃いた。強くこすらない。白陶の底には、細い筋が刻まれている。その筋が、余った湯を静かに逃がす道になっていた。
「ここ、昨日の家の隙間と同じだ」レオンが言った。「なくすんじゃなくて、息の道にする」
湯番が感心したように頷いた。「湯にも息の道がある、か」
「湯気は上に行くけど、詰まりは底で起きています」
レオンは底簀を戻す前に、木枠の角を見た。右端だけ、梅雨の湿りでほんの少し膨らんでいる。ここが斜めになると、葉が引っかかりやすい。
「少しだけ、ならします」
湯番が紙やすりを出す。レオンは木枠を外へ出し、濡れたところを布で押さえた。乾かしすぎない。湯に戻る木だから、からからにすると今度は浮く。表面のささくれだけを、紙やすりで一方向にならす。
「短くしない。ざらざらを取るだけ」
「白柱と同じ?」と低学年の子が聞いた。
「うん。戻すだけ」
木枠を戻し、底簀を置く。湯番が桶に一杯だけ湯を入れ、右奥へそっと流した。湯は底の筋に沿って、すっと抜けた。さっきのように白く溜まらない。
湯気が、湯船の上で薄くほどけた。
「逃げた」
低学年の子の声が、外庭に小さく広がった。
生活担当が「大きな声はここまで」と笑う。湯番は湯止め札を外し、湯口を細く戻した。湯船の右奥にこもっていた白さは消え、空の下へまっすぐ上がっていく。
レオンは露湯札を書いた。
『湯を足す前に、底簀を見る』 『湯の花と葉を分ける』 『底溝は、こすらず掃く』 『木枠は短くせず、ささくれだけ取る』
湯番は札を読んで、入口の湯前札の隣へ仮に掛けた。「これは助かります。湯は見える上ばかり気にしますからね」
「ぼくも、上を見たくなりました」
「でも底を見た」
「昨日、そう言われたから」
誰に、と聞かれそうで、レオンは口を閉じた。白い鷹の話を湯屋の外庭でする必要はない。
放課後、家に帰ると、玄関小棚にはここ数日の札がずらりと並んでいた。住み角札、映り札、静名札、白柱戻し札、灯鈴札、家息札。レオンはその横へ、露湯札の控えを差し込んだ。
フィオナが水宛名札用箱を開けていた。乾いた麦穂印の紙片を、そっと一番上へ戻している。
「それ、戻したんだ」
「混ざらない場所にね」フィオナは短く答えた。「今日は湯?」
「うん。湯気は上に見えるけど、詰まるのは底だった」
クリスが手拭いを抱えて走ってきた。「お兄ちゃん、おふろ、そと?」
「今日は見るだけ」
「こんど、わたしも、そらのおふろ?」
「行くときは、底簀を見てからね」
「そこす、みる」
ルミナが笑いながら、濡れ布と乾き布を分けた。「湯は気持ちをほどくけれど、手順までほどいてはくれないものね」
アストルは露湯札を読んで、口笛を吹きかけてやめた。「底を見るのが板についてきたな」
グレゴールは眼鏡の奥を細めた。「湯気の理論は上昇だけでは足りん。出口を作るのは、底の律儀さだ」
レオンは玄関小棚を見た。転がる道、名前の道、映る窓、住む角、湯気の底。どれも、見えているところだけでは直らなかった。
梁の上で、スノーが露湯札を見下ろして嘴を鳴らした。「湯気は上がるが、詰まりは底で黙る。上ばかり仰いでのぼせるな。……明日は声を張る前に、立つ板と聞く場所を乾かせ」




