6月24日(水):空皿見の日
とある世界では今日は『空に見えた不思議なものを、すぐに名前で閉じ込めず、まず確かめてみる』日。アルメリアでは『空皿見の日』として、昼の空に浮かぶ光や影を、窓の映りと本当の空に分けて眺める日。
初等学舎の昼休みは、昨日の静けさの反動みたいに、少し声が跳ねやすかった。雨は上がっている。けれど廊下の床板には湿りが残り、窓の下だけが白く光っていた。
レオンは弁当箱をしまい、昨日の静名札の控えを鞄の内側へ戻した。声を出さずに道を直す。昨日はそういう日だった。
今日は、声を出したくなる日だ。
「レオンくん、空!」
初等学舎の低学年の子の声が、廊下の向こうから飛んできた。レオンは反射的に走りかけ、すぐ足を止めた。走らない。廊下は湿っている。しかも、こういう声のときほど、先に見ないといけない。
「どうした?」
「丸いの! 空に、丸い皿みたいなのが飛んだ!」
空皿見の日に、空の皿。言葉だけ聞くと、胸が熱くなる。レオンの中のヒーロー心が、発見者になりたがった。けれど同時に、梁の上の白い鷹の声が思い出された。
空を騒ぐ前に、窓の映りを拭け。
廊下の突き当たりには、初等学舎の空見板が立ててあった。透明な板に空を透かし、雲の形や風の向きを短札へ写すための道具だ。今日の空見板は、梅雨の湿りで少し曇り、窓の光を拾って白くにじんでいた。
「どこで見た?」
「ここ。板の右上。丸いのが、ふわって」
低学年の子は両手で丸を作った。
レオンは空見板へ顔を近づけそうになって、止めた。近づきすぎると、自分の顔も映る。見たい気持ちが強いほど、見たいものを作ってしまう。
「まず、役を分ける」
「役?」
「見る人と、書く人と、窓を拭く人を分ける。みんなで同じところをのぞくと、何が映ったのか分からなくなる」
廊下にいた子たちは、少しだけ不満そうだった。空に不思議なものが見えたなら、すぐ騒ぎたい。レオンも同じだった。だからこそ、手順がいる。
初等学舎の昼休み担当が近づいてきた。「何かありましたか」
「空見板に、丸い光が見えたそうです。騒ぐ前に、窓と板を見てもいいですか」
昼休み担当は頷いた。「お願いします。外へ出るなら、廊下の湿ったところは避けてください」
「はい」
レオンは紙を三枚出した。一枚目に『空を見る』。二枚目に『窓を見る』。三枚目に『部屋の中を見る』。昨日の静名灯の箱で覚えた、混ぜないための札だ。
「空を見る人は、校庭側に立って、本当の空を見る。窓を見る人は、板と窓の表面を見る。部屋の中を見る人は、丸いものや光るものがないか探す。書く人は、ぼくがやる」
「レオンくん、見ないの?」
「見る。でも、先に書く。書かないと、みんなの見たものが混ざる」
低学年の子が、少し真面目な顔になった。「まざると、うそになる?」
「うそじゃない。でも、どこから来たのか分からなくなる」
まず、窓を拭いた。乾いた布で、空見板の手前の窓を上から下へ一度ずつ。こすりすぎない。水の跡を広げるだけになるからだ。次に、空見板の表を拭く。裏を拭く。板の下の木枠に溜まった湿りを紙縒りで吸わせる。
それだけで、白いにじみは少し薄くなった。
「空、何かいる?」
校庭側へ出た子が、窓の外から首を振った。「雲だけ!」
「窓は?」
別の子が答える。「まだ、丸いの見える。けど、空じゃなくて板の中みたい」
「部屋の中は?」
低学年の子が、教室の中を見回した。「丸いもの、ある。給食の銀皿。あと、昼休み担当の紙押さえ」
昼休み担当が教室の窓際を振り返った。棚の端に、片づけ忘れた銀色の浅皿が一枚、立てかけてある。雨上がりの昼の光がそれに当たり、空見板へ薄く映っていた。
レオンは胸の中で、少しだけがっかりした。空の不思議ではなかった。けれど、がっかりしたあとに、別の気持ちが残った。
不思議の正体を小さくするのは、つまらなくすることではない。ちゃんと扱える形に戻すことだ。
「銀皿を動かします」
昼休み担当が棚から銀皿を外し、布で包んで奥へ置いた。すると、空見板の右上の丸い光は消えた。
「消えた!」
「じゃあ、銀皿だったの?」
「銀皿の映りと、窓の湿り」レオンは札に書いた。「それから、板の角度。三つが重なったから、空にあるみたいに見えた」
低学年の子は、口を尖らせた。「ちぇっ。ほんとの空皿じゃなかった」
「でも、見つけたのは本当だよ」
レオンはそう言って、空見板を少しだけ傾けた。今度は廊下の梁が映る。もう一度戻すと、空だけが見える。
「本当じゃないのは、“空にあった”って決めつけたところ。見えたことは本当。だから、見えたあとに分ければいい」
「分けると、怒られない?」
「怒られるためじゃなくて、次に同じことで迷わないため」
昼休み担当が、短い札を一枚差し出した。「レオンくん、空見板の横に貼る札を書いてくれますか」
「はい」
レオンは三行だけ書いた。
『空を騒ぐ前に、窓を拭く』 『丸い光は、部屋の中も見る』 『見た人と書く人を分ける』
低学年の子が読んで、納得したように頷いた。「じゃあ、ぼく、空見る係」
「ぼく、部屋の中見る係」
「わたし、書く係やりたい」
役が決まると、騒ぎは遊びではなく、観察になった。空見板の前に並ぶ子たちの声も、さっきより低くなる。見たいものを探すのではなく、見えたものの通り道を探す顔になっていた。
レオンは最後に、空見板の脚を確かめた。左の脚だけ、床の湿りで少し滑っている。ここが斜めになると、また部屋の中を拾いやすくなる。
「脚の下に乾いた布を一枚。厚すぎると角度が変わるから、薄いのを」
昼休み担当が布を出し、レオンは脚の下へ差し込んだ。板はまっすぐになった。校庭の空が、透明な板の向こうに、ちゃんと空として立った。
放課後、レオンは空見板の映り札の控えを鞄へ入れて帰った。雨は降らなかったが、道の端はまだ湿っている。灯路石は夕方の光を待ちながら、昼の出来事を知らない顔で沈黙していた。
家へ着くと、玄関小棚には昨日の静名札、その隣に白柱戻し札、灯鈴札、家息札が並んでいた。レオンはそこへ、今日の映り札を足した。
フィオナが札を読んだ。「空を騒ぐ前に、窓を拭く。……いいね。観察の順番がある」
「本当は、空皿が見えたって聞いて、ぼくも騒ぎたかった」
「騒がなかったんでしょ」
「うん。でも、少しだけ残念だった」
アストルが工房から顔を出した。「残念が残るくらいが、ちょうどいいんだ。全部分かった顔をすると、次に見落とす」
ルミナは濡れ布と乾き布を分けながら言った。「不思議を消すためじゃなくて、傷つけずに持つための確認ね」
クリスが床に座って、丸い紙を両手で持ち上げた。「わたし、そらのおさら、つくった」
「飛ばさないでね」
「とばさない。みるだけ」
レオンは笑って、紙皿の下に乾いた布を一枚敷いた。丸いものは勝手に転がる。光るものは勝手に映る。だから、置く場所と見る順番がいる。
梁の上で、スノーが片目だけ開けていた。今日はただ、家の中の定位置から、玄関小棚に増えた札を眺めている。
「空に名前を貼るのは、窓を拭いてからにしろ。見間違いを笑うな、見直す手順を残せ。……明日は住む場所の角を、外からじゃなく中から見ろ」




