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6月23日(火):静名灯の日

 とある世界では今日は『大切な名前を静かに思い出し、その人のために灯りを分ける』日。アルメリアでは『静名灯の日』として、もう会えない人や、遠くにいてすぐには会えない人の名前を小さな札に書き、昼の鐘に合わせて、灯りをひとつ静かに分ける日。


 初等学舎の昼前の廊下は、雨の匂いを含んで静かだった。昨日より空は明るいのに、床板の端には湿りが残っている。窓の外では、校庭の灯路石が昼の光を受けて、まだ眠ったままの顔で並んでいた。


 レオンは授業用の板書を写し終えると、鞄の横に挟んでいた白柱戻し札の控えを見た。


『ころがす前に、みぞを見る』 『たおした後に、底を拭く』 『戻し板は、戻してからしまう』


 昨日、自分で書いた札だ。前に出るだけが守りじゃない。スノーの言葉は、朝からずっと胸の中で転がっていた。


 昼の鐘の前、初等学舎の礼法担当が廊下の奥に小さな箱を置いた。木箱の正面には、細い横溝がある。その上には、薄い灯紙を差し込む透明な板がついていた。


「今日は静名灯の日です。名前を読む声は出しません。札を入れたら、手を胸の前で止めて、昼の鐘まで静かに待ちます」


 初等学舎の低学年の子たちは、いつもの昼休みより少しだけ背筋を伸ばしていた。けれど、静かにするほど、誰かの椅子の音や、雨粒が軒から落ちる音が大きく聞こえる。


 レオンの前の席の子が、小さな名札を握っていた。角が少し湿っている。


「レオンくん、ここに入れるの?」


「うん。横溝に、まっすぐ」


「声、出しちゃだめ?」


「今日は出さない。名前は、札が持っていく」


 自分で言って、レオンは少し緊張した。名前を札に任せるのは、思ったより難しい。声に出せば届く気がする。けれど今日は、声を出さないで届かせる日だ。


 礼法担当が最初の札を箱へ入れた。薄い灯紙が箱の中でゆっくり下がり、内側の小さな灯りに重なる。明るくはない。けれど名前の形だけが、やわらかく浮かぶ。


 二人目、三人目までは、うまくいった。


 四人目の札が入ったところで、灯紙が途中で止まった。


 箱の中で、灯りが半分だけ隠れる。名前の上半分だけが見えて、下の線が消えている。後ろに並んでいた低学年の子が、不安そうに息を飲んだ。


「こわれた?」


 誰かが小さく言った。


 礼法担当が手を伸ばしかけたが、昼の鐘まで、もう少ししかない。箱を強く振れば灯紙は落ちるかもしれない。けれど、名前の札を傷めるかもしれない。


 レオンは前へ一歩出そうになって、止まった。


 前へ出るだけが守りじゃない。


「礼法担当、声を出さずに見てもいいですか」


 礼法担当は少し驚いた顔をしたが、すぐ頷いた。「お願いします。札に触れるときは、端だけ」


 レオンは頷き、鞄から昨日の白柱戻し札の控えを出した。そこには、溝を見る、底を拭く、戻してからしまう、とある。


 転がる石も、落ちる灯紙も、道が詰まれば止まる。


 レオンはまず、箱の正面を見た。横溝の左端に、薄い紙の毛羽が絡んでいる。名札の角が湿って、少しほつれたらしい。次に、箱の脇の小さな軸を見た。灯紙を下ろす丸棒が、右だけ遅れている。梅雨の湿気で、軸溝に白い粉が固まっていた。


「名札じゃなくて、溝と軸です」


 礼法担当が工具箱を開けようとする。レオンは手を上げた。声を大きくしないための合図だ。


「先に、札を分けます」


 礼法担当は浅い皿を二枚出した。レオンは一枚に、まだ入れていない名札を置いた。もう一枚には、箱から外した押さえ板の小ねじを置く。混ぜない。名前と部品を同じ皿に置かない。


 低学年の子たちが見ている。誰も笑っていない。けれど、早く直ってほしい気持ちが、廊下の湿りと一緒に膨らんでいる。


 レオンは紙縒りを借り、横溝の毛羽をそっと浮かせた。指で引っぱらない。木べらの先で外へ寄せ、小皿の端へ置く。次に、乾いた布を細く折り、溝の底を一度だけ拭いた。


「押しすぎると、名前の通る道が広がりすぎる」


 自分に言い聞かせるように言った。


 礼法担当が小声で答えた。「道は広ければいいわけではないのですね」


「まっすぐ通ればいいです」


 次は軸溝だ。レオンは小ねじを外し、押さえ板を少しだけ浮かせた。丸棒の右端に、湿った白い粉が溜まっている。箱の中で削れた紙と、雨の湿りが混ざったものだ。


「昨日の白柱の底と同じだ」


 レオンは刷毛で粉を掃き、乾いた布で軸を拭いた。油を足したくなったが、今日は名前の札を通す箱だ。油が紙へ移れば、今度は名前がにじむ。


「油は使わない。乾かして、当たりだけ見る」


 礼法担当が頷き、窓を指1本分だけ開けた。風を入れすぎると札が揺れる。けれど閉めたままだと湿りが残る。レオンは昨日、家で見た灯鈴札を思い出した。風の道と音の道を重ねすぎない。今日は、風の道と名前の道を重ねすぎない。


 押さえ板を戻し、小ねじを締める。強く締めない。右、左、右の順に少しずつ。丸棒が斜めにならないよう、指で軽く回して確かめた。


「音なしで試します」


 レオンは空の練習札を一枚、横溝へ差し込んだ。灯紙は静かに下がった。途中で止まらない。内側の灯りに重なり、白い紙が淡く浮かんだ。


 低学年の子が口を開きかけて、慌てて両手で押さえた。


 レオンは少し笑いそうになった。けれど、今日は笑い声も小さくする日だ。代わりに親指を立てる。低学年の子たちも、ばらばらに親指を立てた。


 昼の鐘が鳴る前に、箱は直った。


 礼法担当が最初からやり直すのではなく、止まっていた札から続きを始めた。止まったことをなかったことにしない。けれど、止まったままにもしておかない。


 名札は一枚ずつ、横溝を通った。灯紙が下がるたび、小さな名前の影が箱の中に浮かぶ。声はない。けれど、廊下にいる全員が、その名前の分だけ少し静かになった。


 昼の鐘が鳴った。


 全員が手を胸の前で止める。レオンも目を閉じた。誰の名前を書いたのかは、人に見せなくていい。もう会えない人。遠くにいる人。忘れたくない人。名前の置き場所は、それぞれで違う。


 一分は、長いようで短かった。


 鐘の余りが消えると、礼法担当が箱の蓋を閉めた。「レオンくん、戻し札を書いてくれますか。来年も、この箱を使います」


「はい」


 レオンは短い札を三枚書いた。


『名札とねじを、同じ皿に置かない』 『湿った角は、入れる前に布で押さえる』 『灯紙が止まったら、箱を振らずに溝を見る』


 低学年の子が、最後の札を指でなぞった。「ふらない」


「うん。振らない。中に名前があるから」


「そっか。名前、びっくりする」


 その言い方が、妙に正しくて、レオンは頷いた。


 午後の授業が終わるころ、雨は上がっていた。廊下の窓から見える灯路石は、昼の湿りを少し乾かし、夕方の光を待つ色になっている。


 礼法担当は静名灯の箱を礼法棚へ戻し、レオンに控え札を一枚渡した。「家でも控えておいてください。あなたの札は、次に直す人の手を止めません」


「はい」


 レオンは控え札を鞄へ入れた。昨日の白柱戻し札の隣に、今日の静名札の写しが入る。転がるものと、黙って通るもの。まるで違うのに、どちらも道がいる。


 家へ帰ると、クリスが玄関で迎えた。星粒ほいくえんで作ったらしい、小さな紙灯を持っている。


「お兄ちゃん、みて。しずかの、あかり」


「いいね。誰の?」


「ないしょ」


「そっか。内緒でいい」


 クリスは嬉しそうに頷いた。「ないしょ、まもる」


 居間では、ルミナが濡れた靴底を拭く布を出し、フィオナが玄関小棚の札を整理していた。昨日の白柱戻し札、その隣に灯鈴札、その下に家息札。レオンは今日の静名札の控えを、白柱戻し札の右へ置いた。


「今日は、ずいぶん静かな札ね」フィオナが言った。


「声を出さないで直したから」


 アストルが工房から顔を出した。「それは難しい修理だな」


「うん。ぼく、風で押そうとした。でも、押すより先に、溝を見た」


 ルミナは何も言わず、レオンの頭に手を置いた。少しだけ、いつもより長く。


 グレゴールは札を読み、短く頷いた。「名前を通す道具は、道具の中でも一段やかましい。音を立てぬぶん、扱いに気を使う」


「やかましくないのに?」


「黙っているものほど、雑に扱うと後で響く」


 レオンはその言葉を、玄関小棚の札の間へ置くみたいに覚えた。


 梁の上では、スノーが片目だけ開けていた。白い羽は、昼の雨を知らない顔で乾いている。


「黙るってのは、何もしねえことじゃない。声を出さずに道を直せたなら上出来だ。……明日は空を騒ぐ前に、窓の映りを拭けよ」


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