6月19日(金):声順ほどきの日
とある世界では今日は『文章を声に出し、聞く人へ言葉を手渡す楽しさを思い出す』日。アルメリアでは『声順ほどきの日』として、読む紙、聞く人、息継ぎの場所を分け、声を出す前に順番をほどく日。
金曜の夕方、フィオナは王立魔法学院分校から戻る途中、鞄の中の紙束を指で押さえていた。今日の課題札には、こう書かれている。
『声順ほどき。声に出す前に、読む順、聞く相手、息継ぎの場所を見ること。紙束が濡れているときは、声より先に角を整えること。』
昨日、結び飯を作ったあと、スノーは「声を出す前に、読む順番をほどけ」と言った。米の中身を見た次の日に、今度は言葉の中身を見る。口へ入れるものが変わっても、手順は似ている。
フィオナが家に戻ると、居間の卓に、月読み文庫から借りてきた短い物語の紙束を置いた。学院の課題用に司書ミレーユが写してくれたもので、四枚で一つの話になる。夕食後、家族の前で試し読みをして、読む順と聞く場所を記録することになっていた。
けれど、フィオナが手を洗って戻ると、紙束の順番が少し変わっていた。
「お姉ちゃん、おかえり」クリスが胸の前で両手を合わせている。「わたし、よむ。こえ、だす」
「まだ声は出さない」フィオナは紙束を見た。「これ、順番を替えた?」
レオンが初等学舎の鞄を置き、少し気まずそうに手を上げた。「ぼく。読みやすいように、絵が大きい紙を前にした。クリスは絵から入る方がいいと思って」
「考えたのはいい」フィオナは紙束の角をそっと押さえた。「でも、物語の順番と、絵を見る順番は同じとは限らない」
クリスは紙束を見つめた。「え、まえ、ちがう?」
「違うかもしれない。だから、先にほどく」
ルミナが台所から乾いた布を持ってきた。「紙の角が少し湿っているわ。玄関の近くに置いたから、夕方の湿りを吸ったのね」
アストルが工房から顔を出す。「朗読台なら、父さんが角を押さえる金具を――」
「金具は使わない」フィオナはすぐ言った。「紙に跡がつく」
アストルは両手を上げて引っ込んだ。「はい」
フィオナは紙を三枚切った。一枚目に『読む順』。二枚目に『聞く場所』。三枚目に『息継ぎ』。
「声を出す前に、この三つを分ける」
レオンが頷いた。「読む順は紙束。聞く場所は座るところ。息継ぎは、声を止めるところ」
「そう」
クリスは小さく息を吸った。「いま、こえ、ださない」
「うん。今は、目で読む」
まず紙束を一枚ずつ広げる。角が濡れている紙は、重なったまま引かない。乾いた布で挟み、上から軽く押さえる。こすらない。端に残った湿りだけを移す。フィオナは紙の下に、ひつじ雲ベーカリーの紙箱から取っておいた細い紐を置いた。束を結ぶのではなく、順番が分かるよう横へ並べるためだ。
レオンが一枚目を読んだ。「これ、主人公が森に入る場面。ぼく、絵が大きいから最初にした」
「でも、文の端に『そのあと』ってある」フィオナが指す。「これは一枚目じゃない」
「ほんとだ。声に出してたら、最初から『そのあと』になるところだった」
「だから、口より先に目」
「昨日は口より先に数。今日は口より先に目か」
「似てるけど、同じ札にはしない」
グレゴールが眼鏡を押し上げて近づいた。「物語の順序復元は、古文書にも通じる。紙の繊維方向、墨の乾き、折り目から――」
「おじいちゃん、今日は家族の朗読です」フィオナは言った。「古文書にしない」
「む。では、家庭内の順序復元だ」
ルミナが笑いをこらえながら、椅子を並べた。「聞く場所も決めましょう。読む人の前に詰めすぎると、声がぶつかるわ」
クリスは椅子を一つ持とうとして、少し引きずった。
「待って」フィオナが止める。「椅子も音を出す前に持つ場所を見る」
クリスは椅子の背を両手で持ち直した。「いす、そっと」
「そう」
聞く場所は、居間の長椅子と丸椅子に分けた。クリスは読む人の小椅子。レオンは紙めくり係として隣。ルミナ、アストル、グレゴールは少し離れて座る。スノーは梁の上で勝手に聞く。
紙束は、文章のつながりを見ながら戻した。森へ入る。落ちた鈴を見つける。持ち主を探す。最後に鈴を返す。四枚の順番が決まると、絵も自然に並んだ。
ところが、三枚目の角だけ、まだ少し丸まっている。そこを無理に平らにすると、めくるときに引っかかる。
「息継ぎ札をここに入れる」フィオナは言った。
レオンが首をかしげる。「丸まった角を隠すの?」
「隠さない。ここで一度、息を置く。めくる手も休める」
フィオナは小さな札に『ここで息』と書き、三枚目の下へ少しだけ出るように挟んだ。紙の角を押さえ込まない。めくる人が気づける位置にする。
クリスは札を見て、真剣に頷いた。「ここで、すー」
「そう。声を長くしすぎない」
「すー、して、つぎ」
「うん」
試し読みを始める前に、フィオナは紙束の上へ『読む順』札を置いた。レオンが紙めくりの手を拭き直す。昨日の結び飯と同じで、手が湿っていると紙も声も焦る。
「読む人、クリス」レオンが少し芝居がかった声で言った。
「読む人、わたし」クリスが胸を張る。
「聞く人、家族」
「かぞく」
「紙めくり係、ぼく」
「お兄ちゃん」
フィオナは最後に言った。「止める場所は、息継ぎ札」
クリスは一枚目を見た。ひらがなを一つずつ拾いながら、声を出す。最初は少し急いだ。けれど二枚目の終わりで、レオンが紙をめくる手を止め、三枚目の息継ぎ札を指した。
クリスは思い出したように、息を吸った。
「すー」
それから、次の文を読んだ。声は少し丸くなった。
アストルが拍手しそうになり、ルミナに見られて手を止めた。読み終わる前に拍手すると、声の道が切れる。今日は最後まで聞く日だ。
最後の一文を読み終えると、クリスは両手で紙束を押さえた。
「おしまい」
そのとき初めて、家族が小さく拍手した。強すぎない拍手だ。紙が揺れないくらいの。
クリスは顔を赤くして、でも嬉しそうに笑った。「よめた。すー、できた」
「できた」フィオナは頷いた。「声を出す前に、順番を見たから」
レオンは少しだけ肩を落とした。「ぼく、絵を前にした方が親切だと思った。でも、物語の道を崩したら、聞く人が迷うね」
「親切は、順番を見てから」フィオナは言った。「絵を見る順番を別の札にすれば、使える」
レオンの顔が明るくなる。「じゃあ、読み終わったあとに絵を見返す札を作る」
「いいと思う」
フィオナは新しい札を書いた。
『読み終わったあと、絵をもう一度見る。』
それを紙束の最後へ添えた。読む前の順番と、読んだ後の楽しみを同じ場所に入れない。順番を分けると、レオンの工夫も消さずに済む。
ルミナは紙束を戻し袋へ入れた。「月読み文庫へ返す前に、明日の朝、角が乾いているか見ましょう」
「戻し札、いる」クリスが言った。
フィオナは微笑み、袋へ札を付けた。
『朗読紙束。角を乾かしてから月読み文庫へ。読む順札、息継ぎ札あり。』
夕食後、フィオナは帳面に今日の三行を書いた。
『声を出す前に読む順を見る。聞く場所を先に作る。息継ぎ札は、声と手の両方を休ませる。』
その下に、明日の空白を作る。明日は家の中の空気を見る日だ。声を通したあとは、部屋の息も通さなければならない。
梁の上で、スノーが戻し袋の紐を見下ろし、嘴を鳴らした。「声は大きけりゃ届くってもんじゃねえ。順をほどいて、息を置いて、やっと耳まで歩ける。……明日は家の息を通す前に、窓と床の道を見ろ」




