6月13日(土):星帰り筒の日
とある世界では今日は『遠くまで飛んだものが、長い道のりを越えて帰ってきたことを思い出す』日。アルメリアでは『星帰り筒の日』として、小さな筒や札を飛ばす前に、戻る場所を空け、受け止める布と帰還札を用意する日。
土曜の夕方、フレイメル家の居間には、昨日掛けた二枚額が静かに光っていた。家族の絵札と段取り札は、間紙を挟んだまま、どちらも相手を隠していない。
フィオナはその下で、学院から出ていた週末課題の小箱を開いた。中には、薄い紙筒、細い羽板、重さを量る豆粒ほどの石、それから『帰還札』と書かれた白い札が入っている。
「星帰り筒?」レオンが横から覗き込んだ。「飛ばすやつ?」
「飛ばすけど、飛ばすことが目的じゃない」フィオナは説明書を広げた。「戻ってきた場所を記録する課題」
クリスが目を輝かせた。「おほしさま、かえる?」
「星じゃなくて、筒が帰るの」
「つつ、ただいま?」
「うん。ただいま、できるようにする」
グレゴールが地下室から顔を出した。手には古い木枠がある。枠には細い溝と、小さな押し板が付いていた。
「紙筒を飛ばすなら、昔の帰還枠を使うとよい。魔具というより、教材だ。押した力をまっすぐ逃がすだけのものだがな」
アストルが眉を上げる。「父さん、それ、最後に使ったのいつだ?」
「壊れる前だ」
「それは点検が要る言い方だな」
「だから点検する」
フィオナは帰還枠を受け取り、まず庭側の戸を開けた。雨は止んでいるが、軒先は湿っている。庭の石畳には細い水筋が残り、傘干し棚の下だけが乾いていた。
「飛ばす前に、帰る場所を空ける」
昨日のスノーの言葉を、そのまま手順にする。フィオナは庭の低い台の上へ受け布を広げようとして、手を止めた。そこには、朝から干していたルミナの深緑の傘が半分だけ掛かっている。
「まず傘を戻す」
レオンが頷いた。「帰る場所が先。飛ばす場所より先」
クリスは黄色い傘を両手で持ち、玄関の札を見に走ろうとして、ルミナに肩を押さえられた。
「走らない。戻す場所を見てからね」
「うん。ろっぽんのかさ、もどす」
傘を傘立てへ戻し、干し棚を空ける。次に受け布を張る。四隅に小さな重りを置き、真ん中を少しだけくぼませた。落ちた筒が跳ねないようにするためだ。
フィオナは帰還札を一枚切った。
『帰る場所:庭の受け布』
それを受け布の手前へ置く。
そのとき、レオンが帰還枠の押し板に指をかけた。
「ちょっとだけ動きを見るね。まだ筒は入れないから――」
押し板だけを試すつもりだったのだろう。けれど、溝の上には、フィオナが仮置きした紙筒が乗っていた。紙筒は軽く押し出され、庭へ向かって低く飛んだ。
「あ」
筒は受け布の手前で右へ流れ、軒下の雨樋の縁に止まった。
レオンの顔から得意げな色が消えた。「ごめん。飛ばす前に、帰る場所を空けるって言ったのに」
「今、受け布は空いてた。でも、合図がなかった」フィオナは紙筒から目を離さずに言った。「先に回収する」
「ぼくがやる」
「一人でやらない。戻すときほど、見る人がいる」
アストルが踏み台を持ってきた。フィオナは受け布を動かさず、レオンに下で支えさせた。雨樋の縁に止まった紙筒は、濡れてはいない。木べらの平たい方で少しだけ押し、落ちる先に受け布があることを確かめる。
「落とすよ」
「受け布、ここ」レオンが布の角を押さえる。
紙筒は受け布のくぼみへ落ちた。布が小さく沈み、筒は跳ねなかった。
クリスが胸の前で手を合わせる。「つつ、ただいま」
フィオナは紙筒を拾い、まず濡れと折れを確認した。先の羽板はまだ差していない。筒の口が少しだけ丸く潰れているが、破れてはいない。
「戻ったものは、すぐ飛ばさない。無事を見る」
レオンは深く頷いた。「うん。飛ばしたい気持ちが先に出た。帰る手順を置いていった」
「それが今日の記録」
フィオナは帳面に書いた。
『試し押しで先に飛ぶ。受け布あり。合図なし。雨樋で止まる。破れなし。』
レオンは少しだけ口を尖らせたが、言い返さなかった。十一歳らしく悔しそうで、でも手順を飲み込もうとしている顔だった。
「やり直したい」
「やり直す。今度は、準備を全部声に出してから」
紙筒の先へ小さな石を入れる。軽すぎると戻らない。重すぎると受け布を越える。フィオナは台所の小さな量り皿を持ってきて、石を一つずつ置いた。
「この石、星みたい」クリスが言う。
「星じゃなくて、帰るための重さ」
「おもいと、かえる?」
「軽すぎると、風に行きっぱなしになるから」
アストルが笑った。「人も道具も、少し重さがある方が帰ってくるか」
「お父さん、いいこと言った顔をしないで」
「言っただろ」
ルミナは受け布の角を押さえながら、フィオナの手元を見た。「重さを決めたら、次は羽ね」
紙筒の後ろに、薄い羽板を三枚差し込む。一本目、二本目、三本目。レオンが声に出して数え、クリスも指を折った。羽の一枚だけ、湿りで少し反っている。
「このままだと回る」フィオナは言った。
「回ると戻らない?」レオンが聞く。
「戻るかもしれないけど、狙った場所には来ない」
フィオナは羽板を外し、乾いた布で挟んでまっすぐにした。強く押さない。湿った紙は、力をかけると跡が残る。布で水気を移し、少し待つ。
待つあいだ、レオンは帰還枠を見た。「ぼく、今度は合図を待つ。飛ばす係でも、先に聞く」
「それでいい」
帰還枠は、窓辺から庭へ向けて据えた。紙筒を細い溝に置き、手で押し出すと、庭へ向かって飛ぶ。けれど、溝の途中に小さな紙粉が溜まっていた。
フィオナは短い刷毛で溝を掃いた。入口の粉は外へ出す。水宛名の紙、鍵口、滴り口、傘骨、額溝。違う道具なのに、入口で止める手順は似ている。
「今週ずっと、入口だね」レオンが言った。
「入口と、帰る場所」
「ヒーローは出口も守るけど、帰還係は入口と帰り道を守るんだな」
「帰還係って何」
「今日のぼく。さっき失敗したから、今度はちゃんとやる」
フィオナは少し笑い、帰還枠の溝を乾いた布で拭いた。溝の最後に、雨で膨らんだ木のささくれがある。そこに筒が引っかかれば、飛ぶ前に向きがずれる。
アストルが細い紙やすりを持ってきた。「削るか?」
「少しだけ。溝の外側だけ」
アストルは頷き、ささくれを軽くならした。削り粉は小皿へ。ルミナがすぐ布で受ける。グレゴールは何か言いたげだったが、フィオナに先に言われた。
「説明は試してから」
「……合理的だ」
準備が整った。レオンが紙筒を溝に置く。クリスは受け布の近くでしゃがみ、両手を膝に置いた。
「クリス、そこから一歩下がる」
「ここ?」
「もう半歩」
「ここ。わたし、うけない。ぬの、うける」
「そう」
フィオナは帰還札を指で押さえた。「飛ばすもの。帰る場所。見る人。この三つが決まったら、合図」
レオンが息を吸った。「飛ばします」
紙筒はまっすぐ庭へ出た。けれど、受け布の手前でふわりと浮き、また少し右へ流れた。今度は雨樋までは行かず、受け布の右端に落ちる。
「惜しい」レオンは言いかけて、言い直した。「右へ流れた。記録」
フィオナは頷いた。「原因を見る」
庭へ出ると、受け布の右側だけ、風が抜けていた。傘干し棚を戻したあと、棚の後ろの小窓が少し開いている。そこから風が細く入って、紙筒を横へ押したらしい。
レオンが小窓を見た。「閉める?」
「全部閉めると、風がこもる。半分だけ」
レオンは小窓を半分閉め、今度は自分で帰還札へ書いた。
『右風あり。小窓半分。』
三回目。紙筒はゆるく弧を描き、受け布のくぼみへ落ちた。布が音を飲み、筒は跳ねなかった。
クリスが拍手しようとして、受け布の近くで止まった。「まだ、さわらない?」
「確認してから」
「うん。かえってきても、すぐだっこしない」
「そう。戻ったものは、まず無事を見る」
フィオナは紙筒を開き、中に入れた小さな帰還札を取り出した。札は乾いていた。字も滲んでいない。
『帰る場所:庭の受け布』
その下へ、今日の記録を書き足す。
『合図あり。小窓半分。受け布中央。』
レオンは胸を張った。「ぼく、飛ばす係と帰還係、両方できた」
「飛ばすより、戻す方が難しかったでしょ」
「うん。戻す方が、見るところが多い」
クリスは紙筒をそっと撫でた。「つつ、ただいま。おかえり」
居間へ戻ると、フィオナは紙筒を乾いた布の上に置いた。帰還枠は分解し、溝を拭き、羽板は小皿の横で乾かす。端材の残りに、帰還枠用の戻し札を書いた。
『星帰り筒。飛ばす前に受け布。戻ったら羽を乾かす。』
ルミナがそれを読んで、穏やかに頷いた。「帰ってきた後の手順まであると、安心ね」
「飛ばす前より、戻った後の方が忘れやすいから」
アストルがグレゴールの古い帰還枠を棚へ戻そうとして、フィオナに見られた。
「乾いてから」
「……分かってる。今日は戻す日だもんな」
夜、フィオナは帳面に今日の三行を書いた。
『飛ばす前に帰る場所を空ける。合図のない試し押しはしない。帰ったものは、すぐしまわず無事を確かめる。』
二枚額の下で、紙筒は布の上に置かれている。遠くへ行ったものが戻るには、勢いより先に、戻れる場所が要る。小さな筒でも、気持ちでも、それは同じなのかもしれない。
明日は、分けて渡すものの日だ。戻ってきたものを、今度は誰かへ手渡す。そのためには、量と相手を間違えない札がいる。
梁の上で、スノーが受け布の中央に眠る紙筒を見下ろし、尾を揺らした。「飛ぶのは派手だが、帰るのは手順だ。戻る場所を空けたやつだけが、ただいまを聞ける。……明日は渡す前に、受け取る手を見ろ」




