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5月11日(月):町顔札の日

 とある世界では今日は『土地の顔をたしかめ、その町らしさを誰かに伝える』日。アルメリアでは『町顔札の日』として、店や施設の前に小さな顔札を出し、通りを歩く人がその場所の役目をひと目で思い出せるようにする日。


 月曜の夜、フレイメル魔具修理店の玄関には、木箱が二つ置かれていた。ひとつは灯路番所の係が夕方に預けていった町顔札の箱。もうひとつは、去年から家に残っていた古い顔札の箱だ。どちらの蓋にも、丸い顔や歯車の絵や、小麦の穂を抱えた羊の顔が描かれている。


「これ、ぜんぶ かお?」


 星粒ほいくえんから帰ったクリスが、両手を膝に置いて箱をのぞいた。顔札は笑っているようにも、眠っているようにも見える。札の表は明るい絵。裏は紐と留め具。表だけ見れば楽しいのに、裏を見ないまま出すと、どこかで傾く。


 レオンは顔札を一枚持ち上げ、裏の紐を見た。「お姉ちゃん、これ、出す前の札と戻したあとの札が混ざってる。見た目は同じでも、紐が湿ってるやつがある。夜に掛けたら、途中で横を向くかも」


「横を向く顔札は、道案内にならないね」フィオナは札の縁を指でなぞった。昨日の木杓子桶と同じだ。見た目が似ているからこそ、今の役目を一枚で示す必要がある。


 ルミナは台所から乾いた布を持ってきた。「今日は、顔を出す日。でも、戻ってきた顔を休ませる日でもあるわ」


 アストルは歯車の顔札を見て苦笑した。「うちの顔、ちょっと眠そうじゃないか」


「お父さんが描いた年のやつでしょ」


「修理屋は夜も起きてるからな」


 梁の上でスノーが片目を開けた。「眠そうなのは店主だ。札に責任を押しつけるな」


 まず、卓の上に布を二枚敷いた。左を『今夜見せる』、右を『戻って休む』にする。フィオナが太い字で向き札を書き、レオンが紐を通し、クリスが箱の内側へそっと置いた。クリスの手は少し遅い。でも、急がないぶん、札の顔を乱さない。


「わたし、ねんねのかお、こっち」


「うん。戻って休む顔は右」ルミナが頷く。「出す顔は、裏の紐が乾いていて、留め具がまっすぐなものだけ」


 グレゴールは眼鏡を押し上げ、札の裏を眺めた。「表の絵に気を取られると、裏の紐を見落とす。町の顔札は、顔より裏が働く」


「おじいちゃん、顔より裏って、ちょっとこわい」


「こわくない。支えているだけだ」


 外で戸鈴が鳴った。アストルが戸布を上げると、ひつじ雲ベーカリーのテオが、薄い包みを持って立っていた。粉の匂いと、夜の冷えが一緒に入ってくる。


「こんばんは。うちの顔札、混じってない?」


 フィオナの手が一瞬だけ止まった。箱の中に、小麦の穂を抱えた羊の顔札が二枚ある。一枚は表がきれいで、紐も乾いている。もう一枚は裏に小さな染みがあり、留め具が少しだけ斜めになっていた。


「ある。……二枚」


「二枚?」


 レオンがすぐに説明した。「たぶん、去年出した札と、今年出す札が同じ箱に戻ってる。今夜出すなら、裏の紐が乾いてるほう。戻りのほうは乾かして、留め具を直してからだと思う」


「助かる。見た目だけなら、ぼく、明るいほうを選んでた」


 その言い方が素直で、フィオナは少しだけ息を吐いた。顔札を間違えたのは誰か、という話にしなくていい。今どちらを出すか、だけ決めればいい。


 ところが、乾いたほうの羊の顔札を試し掛けすると、札の下端がゆっくり横へ流れた。灯路の薄い光を受けるはずの縁が、店の壁の方へ逃げてしまう。


「……まだ、向かない」


 テオが留め具を押さえた。「紐は乾いてる。なのに、戻る」


 フィオナは札を外し、裏を灯りに近づけた。留め具の溝に、白っぽい粉が溜まっている。粉と花粉と、昨日までの湿りが小さく固まって、紐の戻る道を狭くしていた。


「ここ。溝が埋まってる。顔の問題じゃない。首の問題」


「首」クリスが自分の首を押さえた。「かお、まえ、むけない?」


「そう。だから、首を楽にする」


 フィオナは短い刷毛で溝を掃き、木べらで固い粒を外へ寄せた。ルミナが乾いた布を渡し、テオが札の端を両手で支える。アストルは留め具の小さな釘を半回しだけ緩め、締め直す前に薄い木片を一枚差し込んだ。魔法で向きを変えるのではない。紐が戻れる道を作る。


 グレゴールがうなずいた。「顔札は、引っ張って前を向かせるとまた曲がる。戻る隙間を残せ」


 もう一度、試し掛けする。羊の顔札は少し揺れて、正面で止まった。テオの肩が下りる。


「これなら、店先で迷わない」


「明日の朝、外したら右の箱へ戻して。濡れていたら、工房入口の乾き棚へ」フィオナは、右の箱に『戻って休む』の札を足した。「乾いたあとで、留め具を見る」


「分かった。戻すところまで、顔札の日なんだな」


「うん。出すだけだと、明日の誰かが困るから」


 会話は短いのに、家族の視線が多い。アストルは咳払いをし、ルミナは何も言わない顔で布を畳み、レオンは妙に真面目な顔で歯車の顔札を見ている。クリスだけが素直に笑った。


「テオおにいちゃんのかお、ひつじ」


「ぼくの顔じゃないよ」


「でも、あったかい」


 フィオナは返事を探して、結局、札の向きだけを直した。言葉より先に手が動くときは、まだ救われる。


 テオが帰ったあと、家の顔札も仕分けた。フレイメル魔具修理店の歯車顔札は、表に細い傷があったが、裏の紐は強い。今夜見せる箱へ。去年の古い白鷹の顔札は、表はきれいでも紐の根元がゆるい。戻って休む箱へ。


 スノーが梁から首を伸ばした。「その白いの、俺に似ていると言うなよ」


「言ってない」フィオナはすぐ答えた。


 アストルが小声で言う。「でも、ちょっと似てる」


 スノーの視線が刺さり、アストルは黙って布を拭き直した。


 最後に、町顔札箱の蓋へ二枚の札を貼った。左の箱は『今夜見せる』。右の箱は『戻って休む』。出す顔と、休む顔。似ていても、箱が違えば手は迷わない。


 夜の灯路へ出ると、通りには小さな顔札がひとつずつ掛かっていた。パン屋の羊。湯屋の白い湯壺。灯路番所の鈴。フレイメル魔具修理店の歯車。どれも派手ではないけれど、町の人がその場所を思い出すには十分だった。


 クリスは歯車の顔札を見上げた。「うちのかお、ねむくない」


「そうだね」フィオナが答える。「ちゃんと前を向いてる」


 レオンは腕を組んだ。「明日の朝、外すときも見る。出す仕事と戻す仕事は、同じくらい大事だから」


 ルミナはそっと頷いた。「町の顔は、夜だけじゃなくて、戻ったあとも町のものね」


 風が一度、通りを渡った。顔札は揺れたが、横を向かない。紐は乾いていて、留め具はまっすぐだった。


 フィオナはひつじ雲ベーカリーの方角を一度だけ見た。羊の顔札も、きっと前を向いている。明日の朝、戻ってくる場所まで決まっている。そう思うと、今日の会話の短さも、少しだけ安心に変わった。


 スノーが梁へ戻る前に、夜道を見下ろして言った。「顔は笑うためだけにあるんじゃねえ。裏を乾かして向きをそろえた顔だけが、夜の町で道になる。明日は看る手を間違えるなよ」


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