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5月10日(日):母手やすめの日

 とある世界では今日は『いつも家を回している母の手へ、ほかの手が順番ごと礼を返す』日。アルメリアでは『母手やすめの日』として、母が最後のひと手間で止まらなくてすむように、先に道具の居場所を整える日。


 日曜の昼まえ、台所には冷やし箱の白い息がうすく流れていた。昨夜のうちに冷やしておいた乳菓を、今日は家族で小皿へ分ける。いつもなら最後のすくい役はルミナだけれど、今日は違った。フィオナもレオンも、朝から「今日はお母さん、すわってて」と言い続けている。アストルまで、冷やし箱の蓋を持つ手つきだけはやけに慎重だった。


 クリスはその言葉がうれしくて、ずっと椅子の上で膝をそろえていた。お母さんが座る日。お母さんの手が、少しだけ休む日。そう思うと、いつもの台所が、いつもよりやさしく見える。


 けれど、戸口わきの冷やし台の下だけは、まだ少し落ち着かなかった。木の桶が二つ。左の浅い桶には、これから乳菓をすくう前の木杓子。右の桶には、さっき一度洗って、水を切っている途中の木杓子。どちらも木の色は似ていて、柄の長さも近い。桶が一つに寄っていたら、どちらが次なのか、見ただけではすぐ分からなくなる。


 クリスはその二本を見比べた。片方は少し外向きで、もう片方はまっすぐだった。そろえたらきれいだな、と先に思う。けれど昨日の鋏のことが、胸のどこかにまだ残っていた。


「これ、どっちが つぎ?」


 そう言って、クリスは手を出しかけたところで止まった。自分で止まれたのが、少しだけうれしい。


 レオンがすぐ横で頷く。 「うん。先に聞けた」


 ルミナは紙包みの口を整えながら、木杓子を見た。 「いちばん困るのは、杓子が二本あることじゃないの。次にすくうほうが、すぐ分からないこと。せっかく私が座っていても、そこで手が止まったら、また私が立つでしょう」


 クリスは桶の中をのぞきこんだ。どっちも、すくえそうな顔をしていた。きれいに立っているし、木の匂いも同じだ。でも、困るのは見た目じゃなくて、次が見えないことだった。


「じゃあ、おなじ かおでも、つぎは ひとつ」


「そう」 フィオナが笑った。 「今日はそれを、木のほうへ書こう」


 アストルは戸口の横にもう一つ小さな桶を持ってきた。湯屋帰りの桶でも、洗い布の桶でもなく、台所の冷やし台の下へちょうど収まる浅い木桶だった。左はこれから使う木杓子。右は洗って立てる木杓子。半歩だけ離して置く。離しただけで、冷やし台の下の空気が少し通る。


 グレゴールが地下室から細い木片を一本よこした。小箱のふたの端を切ったような、薄い端材だった。 「木口札にしろ。紙だと冷えた水気でたわむ」


「ありがとう、おじいちゃん」 レオンが受け取る。


 フィオナはその木片へ、炭筆で短く書いた。『つぎ すくう』。字は太く、木目に負けないように。レオンが細い紐を通し、左の桶の縁へ結ぶ。


「これ、一枚だけ?」 クリスが聞く。


「うん。一枚だけ」 ルミナが頷いた。 「二枚あると、今度はどっちが今かでまた止まるから」


 アストルが桶の位置を少しだけずらす。 「左の札があるほうが、今すくう杓子。使ったら洗って右へ。乾いて次に回せるようになったら、札だけ先に移す。いつも“いま”を知らせるのは一枚だけだ」


 クリスは、その勝ち方をもう知っていた。札を先に動かす。道具はそのあと。ここ数日の家が、同じことを少しずつ教えていた。


「わたし、うごかす?」


「うん。でも、杓子じゃなくて、まず札」 ルミナが言う。 「今どっちを見てるか、先に決めるの」


 それから家族で、小さな順番を作った。乳菓をすくう前は、左の『つぎ すくう』の桶の木杓子を使う。使い終えたら軽く洗い、右の桶へ立てる。水が切れて、もう次に回していいとなったら、木口札だけ先にその桶へ移す。木杓子は、札のある桶に一本だけ。そうすれば、同じ木の顔でも、次の役目が見える。


「やる」


 クリスは自分から言った。左の桶の木杓子へ触る。札も左。だから今使うのはこれ。ルミナが器の表面を木匙で軽くならし、フィオナが小皿を差し出し、クリスはその小皿を両手で支えた。アストルが木杓子でひとすくいすると、白い乳菓が丸く落ちる。冷えているのに、やわらかくて、つるんとしていた。


「おちた」


「うん。今のは、ちゃんと次へ行った」 レオンが頷く。


 木杓子を洗って右の桶へ立てる。次に、木口札だけを右へ移す。


「……つぎ、こっち」


「そう」 フィオナが笑う。 「札が先に動くと、手が迷わない」


 通りの向こうから、焼き色のやわらかな匂いが少しだけ流れてきた。ひつじ雲ベーカリーの窯だろう。クリスが鼻を動かす。


「テオおにいちゃんのとこも、いい におい」


 フィオナは一度だけ窓の外を見て、すぐ木口札へ目を戻した。 「うん。あっちも、今日はだれかの手を休ませてるのかもね」 その声がやわらかくて、クリスはなんとなく胸の中まで甘くなった。


 皿が一枚ずつ増えていく。木口札は左、右、左、とゆっくり桶のあいだを移る。木杓子が二本あっても、今どこまで来ているかは一つだけ見えている。だから、ルミナは最後まで立たなくてよかった。小皿を並べる手も、紙包みを整える手も、途中で止まらない。


「お母さん、すわってて できた」 クリスが小さく言った。


「うん」 ルミナは椅子に座ったまま頷いた。 「今日のいちばんいいところね」


 アストルは最後のひとすくいを皿へ落とし、肩を揺らして笑う。 「助かった。今日は俺が立つ番だったな」


「いつもはお母さんが立ってるんだもんね」 レオンが言うと、アストルは少しだけ気まずそうに鼻を掻いた。


 フィオナは皿をひとつ、いちばん先にルミナの前へ置いた。白い乳菓の上へ、刻んだ薄紅の果皮を少しだけ散らす。クリスも自分のぶんより先に、ルミナの皿を見た。


「お母さん、さいしょ」


 ルミナはほんの少し目を細め、でも照れたみたいに笑った。 「ありがとう。じゃあ今日は、ちゃんと座っていただくわ」


 その言い方が、家の真ん中でいちばんやわらかかった。きれいに揃った桶より、白く曇った器より、今日いちばん効いたのはそこかもしれないと、クリスは思った。


 食べ終わるころ、左の桶には次の一すくいの木杓子、右の桶には洗って立てた木杓子。木口札はまた左へ戻っている。明日、誰が見ても、次がどこか分かるように。フィオナは札の向きを整え、レオンは二つの桶の間をもう少しだけ離した。アストルは冷やし台の足もとの水を拭き、グレゴールは何も足さず、その並びを見て満足そうに鼻を鳴らした。


「わたし、そろえるの すき」 クリスが言う。 「でも、つぎ すくうの、のこす」


「うん」 ルミナが頷く。 「そろえる前に、何を残すか決めるの。今日はそれが、お母さんへの贈りものだったのよ」


 昼の光が少し傾き、戸口の影が長くなりはじめる。明日は、町の顔札を出す前の札と、外して戻したあとの札を、同じ箱へ寝かせないほうがよさそうだ。見せる顔と、休む顔は、似ていても別にしておいたほうが、夜の会話がぶつからずに済みそうだった。


 梁の上でスノーが、二つに分かれた木桶と、そのあいだを行き来した木口札を見下ろして嘴を鳴らした。 「母の手を休ませたいなら、礼を口で言う前に道具へ居場所をやれ――すくう前と洗い上がりが混ざらなきゃ、感謝は台所でちゃんと冷めずに残る」


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