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5月12日(火):看る手灯の日

 とある世界では今日は『看護の心と、夜を見守る灯りを思い出す』日。アルメリアでは『看る手灯の日』として、誰かを助ける前に、まず相手の声を聞き、差し出す手の順番を整える日。


 火曜の夜、フレイメル魔具修理店の玄関には、昨夜の町顔札が戻っていた。左の見せ札箱は空になり、工房入口の乾き棚には、戻り札箱が静かに置かれている。羊の顔札は入っていない。ひつじ雲ベーカリーの店先で、きちんと休む箱に戻されたのだろう。


 フィオナはそれを見て、少しだけ胸をなで下ろした。出したものが戻る場所を持つと、昨日の会話まで落ち着いて見える。


「ただいま」


 初等学舎から帰ったレオンが、いつもより声を低くして入ってきた。片手を鞄の影に隠している。


 ルミナは台所で湯を移していた手を止めた。「レオン、手を見せて」


「たいしたことない。ちょっと、校庭の石でこすっただけ」


 言い方が強いほど、たいしたことがある。フィオナはそう思ったが、先に言葉を出さなかった。昨日、スノーに言われた通り、看る手を間違えると、相手の息が詰まる。


 ところが、アストルはすでに工房から薬箱を持ってきていた。「消毒だな。布、布はどこだ」


「ぼく、洗う水を持ってくる」レオン自身が動こうとする。


「わたし、ふーする」クリスが椅子から降りる。


 フィオナも反射で温石を取りかけて、途中で手を止めた。台所の中で、手だけが増えていく。誰かを助けたい気持ちが、本人の前をふさいでいた。


 ルミナが小さく手を上げる。それだけで、家の中の動きが止まった。


「看る手灯の日だから、先に決めましょう。今、いちばん先に必要な手は、聞く手」


 レオンは肩を少し落とした。鞄の影から出した手のひらに、浅い擦り傷がある。血はもう止まりかけていたが、土の粉が端に残っている。


「痛い?」ルミナが訊いた。


「少し。走ってたら、前の子が止まって、ぼくも止まろうとして、手をついた。泣いてないし、ちゃんと立てた」


「うん。泣いていないことと、痛くないことは別ね」


 その言葉に、レオンは少しだけ目を伏せた。「……痛い」


 アストルの眉が寄った。けれど、ルミナは薬箱をまだ開けない。


「次に、差し出す手。フィオナ、浅い皿にぬるい水。アストル、乾いた布を二枚と消毒草水を少し。クリスは、椅子を一つだけこっちへ。義父さんは、灯りの首を下げて」


「私は?」フィオナが返事をしたあと、自分の声が急いでいると気づいた。


「皿だけ。温石はまだ使わない」


 魔法で痛みを消すのは簡単ではない。痛みには、場所を知らせる役目もある。ルミナは元回復術士だからこそ、何でもすぐに消さない。


 フィオナは浅い皿へぬるい水を入れた。湯気が立たない温度。レオンの手を入れるには、熱すぎても冷たすぎてもいけない。アストルは乾いた布を畳み、小瓶の消毒草水を盆へ置いた。クリスは椅子を引いて、そこへ両手を置いた。


「いす、ここ。お兄ちゃん、すわる」


「ありがとう」レオンは照れたように座った。


 グレゴールが作業灯の首を下げると、灯りは手のひらだけを照らした。まぶしくない。影も濃すぎない。


 ルミナはレオンの手を水に浸し、土の粉が浮くのを待った。こすらない。まず、ほどけるものをほどけるだけほどく。


「お母さん、早く拭いた方がいい?」アストルが訊いた。


「まだ。急ぐと、土を押し込むわ」


 アストルは布を持ったまま、黙った。普段なら軽口で場を明るくするところだが、今夜は黙ることも手伝いになる。


 しばらくして、ルミナが乾いた布の端で水を吸わせた。傷口そのものを強く拭かず、周りから。次に、消毒草水を含ませた細い布を、傷の外側から内側へ一度だけ通す。治す、ではなく、邪魔を取る。魔法より先に、水と布と、待つ時間がある。


「ここ、いたい?」クリスが小さく訊いた。


 レオンはうなずく。「そこは痛い。でも、さっきより平気」


「ふー、する?」


 ルミナが少し笑う。「今日は、ふーは最後。先に、乾かす」


 クリスは真剣に頷いた。「さいご。わたし、まつ」


 フィオナは小さな札を一枚切った。端を布で撫でて、引っかかりを落とす。そこに、短く書く。


『聞く手』 『差し出す手』 『洗う手』 『消毒の布』 『待つ灯り』


「札にするの?」レオンが訊いた。


「うん。次に誰かを看るとき、手が先に走らないように」


「ぼく、助ける側のとき、先に聞く」


 レオンの声は、少しだけ悔しそうだった。怪我をした自分より、次に助ける自分へ話を移したいのだろう。ルミナはそれを責めず、替え布を取った。


「それもいい。でも今は、看てもらう側の練習ね」


 レオンは口を結び、それから小さく笑った。「ヒーローも、手当てされる日がある」


「ある」アストルが即答した。「お父さんも昔、よくされた」


「お父さんは多すぎ」グレゴールが言う。


 台所に、少しだけ笑いが戻った。


 ルミナは最後に、乾いた清潔な布を軽く巻いた。強く縛らない。レオンが指を曲げて、動くか確かめる。


「動く。大丈夫」


「大丈夫は、確認してから言うと強いわ」ルミナはそう言って、布の端を折った。


 クリスがそこで、そっと息を吹きかけた。「いたいの、ちいさくなあれ」


 魔法ではない。ただの息だ。けれど、レオンは今度は逃げなかった。


 食後、フィオナは札を看る手盆の内側へ貼った。盆には浅い皿、乾いた布、替え布、消毒草水の小瓶、短い鉛筆、空の小札を入れる。薬箱とは別にした。薬を使う前に、聞くための盆だ。


「これ、台所棚の中段でいい?」


 ルミナは頷いた。「誰でも取れて、クリスが勝手に開けすぎない高さね」


「わたし、かってに、あけない」


「知ってる。だから見える場所にするの」


 クリスは少し考えてから、満足そうに頷いた。


 玄関の外では、町顔札が夜の風に揺れていた。歯車の顔も、灯路番所の鈴も、前を向いている。見せる顔は昨夜整えた。今夜は、見せない手を整える日だった。


 フィオナは戻り札箱の横に、看る手盆の空札を一枚置いた。明日の朝、ひつじ雲ベーカリーの羊の顔札が戻ってきたら、乾き棚の位置をもう一度見るつもりだった。直接会わなくても、戻る場所を気にしている自分が少し恥ずかしい。


 スノーは梁からレオンの布巻きの手を見下ろし、鼻で笑うように嘴を鳴らした。


「看るってのは、羽を広げて覆うことじゃねえ。相手の声が通る隙間を空けることだ。……明日は混ぜる杯を間違えるなよ」


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