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4月23日(木):窓辺読みの日

 とある世界では今日は『子どもの手へ本を渡すなら、頁の先だけでなく、その本が戻る場所まで整えておく』日。アルメリアでは『窓辺読みの日』として、窓の近くで読む本の栞と、読み終えて棚へ返す本の札を分け、春の風が軽い紙をさらう前に、読む道と戻る道を先に決める日。


 朝の台所には、焼いたパンの香りと、まだ少し冷たい紙の匂いが同じ卓へ集まっていた。フィオナは朝食のあと、短い紙札を二枚だけ切りそろえていた。『栞札』と『返し札』。昨日、緑雨舎で苗札と根札を分けた手つきが、そのまま指に残っている。切り欠きは、栞札を細くまっすぐ、返し札を小さく丸くした。手袋のままでも、指先だけで迷わないように。


「今日は文庫ね」とルミナが湯呑みを寄せながら言った。 「うん。昨日の小鉢、窓辺へ置く日だから」 「読んだあとが増えそう」とアストルが言って、工房へ下りる前に小さな木片を二つ卓へ置いた。紙を押さえるための、平たい留め具だ。 レオンが札を指でなぞる。「こっちが、読む本?」 「うん。こっちは、読み終えて戻す本」 「じゃあ、守るのは戻すほうだな。読んだだけだと、まだ半分だし」 「今日はその考えで合ってる」とフィオナは答える。 クリスは丸い切り欠きの返し札を見て、小さく頷いた。「こっち、かえる」 「そう」とルミナが笑う。「帰る場所が決まってると、読むほうも落ち着くもの」


 昼すぎ、分校の講義が終わったあとで、フィオナは図書室『月読み文庫』へ向かった。窓ガラスの内側には、昨日の緑雨舎の小鉢が二つ並んでいた。細い葉が光を透かし、土の匂いが本の匂いの奥でやわらかくひろがっている。その窓辺の机の前で、司書ミレーユが薄い束を両手に持ったまま立ち止まっていた。


「フィオナ、よかった」と司書ミレーユが静かに言う。「今日は小さな子向けの読みの時間があるの。けれど、栞札と返し札が混ざってしまって」 机の上を見ると、事情はすぐに分かった。読みの時間に使う本には細い栞札を挟み、読み終えた本には返し札を添えて棚へ戻すはずだったのに、どちらも同じ浅い箱へ重なっている。貸し出し札の箱はいつもの位置にあるのに、今日だけ増えた札の置き場が足りなかったのだ。しかも窓辺の小鉢を置いたぶんだけ机が少し狭くなり、読む本の山と返す本の山まで近づいていた。春の風が窓の隙間を抜けるたび、軽い札の角が持ち上がり、返し札が栞札の下へ滑り込む。


「すみません、まだ選ばないでくださいね」 司書ミレーユが、集まってきた親子へやわらかく声をかける。保護者に手を引かれた小さな子たちが、窓辺の本をのぞき込みながら半歩ずつ近づいてきていた。けれど、読む机と返す小卓が近すぎて、どこで待てばいいのかも曖昧だった。読書の日だからこそ、本は多い。多い日に同じ箱を使うと、手のほうが先に急ぐ。


 フィオナは一歩だけ机へ寄った。 「保留を手前へ出しましょう」 司書ミレーユが頷く。「うん。まず、止める場所ね」 「読む本は左。戻す本は右。でも右の外じゃなくて、窓風の当たりにくい内側。迷う本は手前です」 司書ミレーユは窓の隙間と紙の動きを見比べて、小さく息を吐いた。「今日は風が、窓から机の右へ抜けてる」


 フィオナは鞄から札を出した。『栞札』『返し札』『保留』。それから、石床へ置くための『ここでえらぶ』の札を一枚。子どもたちが机へ寄りすぎると、袖が札を連れていってしまうからだ。


 まず、読む机を窓から半歩だけ離した。窓辺の小鉢はそのまま残す。今日はあの緑が窓辺読みの日の顔だから、どかさない。その代わり、本の山の位置を変える。左へ『栞札』の箱。右の内側へ『返し札』の箱。手前へ『保留』。さらに返す本の山は、読む机から一歩離れた小卓へ移した。読む場所と戻す場所が近すぎると、手の順までつられてしまう。


「読む前は左」とフィオナが言う。 「読み終えたら右」と司書ミレーユが復唱する。 「迷ったら手前」とフィオナが続ける。 三つ言うだけで、机の上の気配がすっと細くなった。


 最初の一冊は、窓辺の鉢の横に置かれた薄い絵本だった。司書ミレーユが読みはじめる前に、フィオナはその本の栞札を左の箱から一枚抜いて、表紙の内側へ静かに挟む。読み終えた本は、すぐ右の小卓へ移し、返し札を添える。返し札の丸い切り欠きが、小さな子の指にも分かりやすい。次の本、その次の本。返す本の山だけが少しずつ増え、読む本の山は順番どおりに軽くなっていく。


 途中で一冊だけ、栞札も返し札も入っていない本が出た。春の風で抜けたのか、それとも最初から落ちていたのか分からない。 「それは保留」とフィオナが言う。 司書ミレーユは迷わず手前の箱へ置いた。「次へ進めるための止まり木ね」 その言い方に、フィオナは少しだけ笑った。昨日の苗棚と同じだった。迷うものに席を与えると、ほかのものまで迷わずに済む。


 子どもたちも、石床の『ここでえらぶ』の札の後ろへ自然に並び直していった。影が机へかからなくなると、紙の白さが戻る。ひとりの小さな子が、細い切り欠きの栞札と、丸い返し札を見比べて司書ミレーユへ訊いた。 「これ、まだよむの?」 司書ミレーユはやわらかく頷く。 「細い切り欠きは、これから読む本。丸い切り欠きは、棚へ帰る本」 「かえるの、わかる」 その声に、部屋の空気が少しだけやわらかくなった。


 読書の時間が終わるころには、窓辺の机の左はほとんど空になり、右の小卓だけがきれいに整っていた。返し札のついた本は高さをそろえられ、保留の本は一冊だけ。あの一冊も、あとで背表紙の保護刻印と棚札を見れば戻り先が分かる。司書ミレーユが息をつく。 「助かったわ。今日は同じ本を二度読まずに済んだ」 「戻る場所が見えると、読む順も落ち着くので」 フィオナがそう答えると、司書ミレーユは窓辺の小鉢へ目をやった。「昨日の緑も、ちょうどよかった。子どもたち、窓のほうをよく見てたもの」 フィオナもつられて見た。土は静かで、葉は少しだけ窓へ向いている。明日になれば、水の札や日向の札も要るかもしれない。


 帰り道、灯路の石畳は夕方の色へ変わりかけていた。家へ戻ると、レオンが籠の横の札を見てすぐ言った。 「返し札のほうが増えた」 「うん。読み終えたぶんだけ、そっちへ行ったから」 クリスは細い切り欠きの栞札と、丸い切り欠きの返し札を見比べてから、得意そうに言った。 「これ、まだ。これ、おしまい」 「そう」とルミナが頷く。「おしまいの場所があると、まだ、のほうも慌てないのよ」 アストルも工房の戸口から笑う。「本も道具も同じだな。使う前と、使い終わったあとを同じ箱へ入れると、次の手が遅くなる」


 窓の外では、月読み文庫の窓辺が灯りにうっすら浮いていた。小鉢の葉が、昼より少しだけ影を濃くしている。明日はあの葉に、朝の札と夕の札が要るかもしれない。春のものは、育つ前に分け名をもらうと落ち着く。


 梁の上でスノーが、細い栞札と丸い返し札、そのあいだに残った一枚の保留札を見下ろして嘴を鳴らした。 「読んだ頁は閉じりゃ済むが、本の帰り道までは勝手にそろわねえ。だから先に名を分けろ――戻る場所を知ってる本だけが、明日また誰かの手で開かれるんだ」


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