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4月22日(水):土守りの日

 とある世界では今日は『足の下の土を、ただ踏むだけのものではなく、明日を育てる場所として見直す』日。アルメリアでは『土守りの日』として、苗を土へ下ろす前の名と、根が落ち着いたあとの名を分け、春の湿りは土へ残して、札には残しすぎないように整える日。


 朝の台所には、まだ少し眠たそうな湯気があった。ルミナが鍋の蓋を少しずらし、アストルは工房へ下りる前に、卓の端へ乾いた布を一枚だけ置く。フィオナはその布の横で、小さな札を二枚切っていた。昨日の『声前札』と『回し札』の余韻が指に残っている。今日は『苗札』と『根札』。切り欠きは、苗札のほうをまっすぐ、根札のほうを丸くした。


「今日は土の札か」とアストルが覗き込む。 「うん。分校の帰りに緑雨舎へ寄るの。昨日、ラウラさんが苗を移すって言ってたから」 ルミナが頷いた。「春の札は湿るのが早いものね。土のそばだと、なおさら」 レオンが手を止めて、札の切り欠きを指でなぞる。「植える前と植えたあと、たしかに別だ。根が動く前に水をかけすぎると、ぐらつくし」 「よく知ってるね」とフィオナが言うと、レオンは胸を張った。「ぼく、前に見た。ヒーローは足元から守るんだ」 クリスは丸い切り欠きのほうを見て、小さく頷いた。「こっち、ねっこ」 「そう。こっちはもう土へ入ったあとの札」 そう答えながら、フィオナは札を布袋へ入れた。春の困りごとは、たいてい軽い。軽いからこそ、置き場所を先に作らないとすぐ混ざる。


 昼すぎ、王立魔法学院分校の授業が終わると、フィオナはそのまま薬草温室「緑雨舎」へ向かった。ガラス張りの温室の中は、外より少しだけ温かく、湿り気のある匂いがした。薬草と土と、水を含んだ木棚の匂い。そのなかに、春らしい細かなマナ・ポーレンまで混じっている。


 温室番ラウラは、入口近くの苗棚の前で腕を組んでいた。足元には細い苗床が三つ、横には移し替えを待つ小鉢が並んでいる。セラフィナも一緒で、いつものきびきびした顔より少しだけ落ち着かない。


「フィオナちゃん、助かった」とラウラが言った。「セラフィナちゃんが先に手伝ってくれてたんだけど、戻しの順が少し崩れたの」 セラフィナがすぐ頭を下げる。「ごめん。鐘の前に急いで棚へ戻したの。苗札と根札、同じ皿に入れたまま」 フィオナは皿を見た。薄い木皿の上で、札が湿って少し反っている。土の粒が端に貼りつき、字も一部だけ薄くなっていた。しかも棚の前には、まだ土へ入れる前の苗鉢と、移し替えが済んで根を落ち着かせている鉢が、ほとんど同じ間隔で並んでいる。


「このままだと、水やりの加減が混ざるわね」とラウラがため息をついた。「根がまだ落ち着いていない鉢は、棚の奥で静かにしておきたいのに」 フィオナは、まず鉢のほうを見た。札より先に、土の状態を見る。まだ移していない苗は、鉢の縁が乾いていて、土入れ前の軽さが残っている。移し替えが終わった鉢は、株元の土だけ少し濃く、支え紐も湿っていた。解析眼を使うまでもない。目の前に、ちゃんと違いが出ている。


「止めましょう」とフィオナが言う。「いまは誰も、新しく土へ入れないで」 ラウラがすぐ頷く。「うん。いったん止める」 「セラフィナ、乾いた布、ありますか」 「ある」 「あと、空の棚段を一つ借りたい」 「上の段なら空いてる」


 フィオナは苗棚の前へ、乾いた布を一枚広げた。湿った札はまずそこへ逃がす。皿の上で重ねたままだと、土の粒と湿気が互いの字まで曇らせるからだ。札を一枚ずつ布の上へ離して置き、短い刷毛で土粒だけを払う。乾いた音が、温室のやわらかい空気の中で小さく響いた。


 次に、鉢を二つの列へ分ける。まだ土へ入る前の苗鉢は、作業台に近い手前の列へ。根を落ち着かせる鉢は、風の届きにくい奥の列へ。待つ鉢と済んだ鉢が隣り合っていると、手が近道を選んでしまう。近道は、春の忙しい日にはいちばん混ざりやすい。


「これ、昨日の広場と同じだね」とセラフィナが小さく言った。 「うん。読む前と読んだあとが混ざるのと、似てる」 フィオナはそう返してから、札を二種類に分け始めた。まっすぐな切り欠きは苗札。丸い切り欠きは根札。今ある札にも、その場で切り欠きを足す。小さな刻印で増やす方法もあるけれど、今日は紙が湿っている。だから紙に負担の少ない木の小刃で、端だけを少し削った。


 ラウラが感心したように息をつく。「手袋のままでも分かるわね」 「春は急ぎ足になりやすいので」とフィオナは答える。「見るだけだと、湿りと光で似てしまうから」


 棚段も分け直した。手前の上段を苗札棚。奥の下段を根札棚。苗札は作業台に近く、根札は静かに休ませる鉢の近くへ。さらにその中間に、小さな『保留』の札を一枚だけ掛けた。どちらか迷う鉢を一時的に置く場所だ。迷いながら先へ進むより、迷いをいったん止めるほうが、あとで早い。


 セラフィナが、先ほどまでうつむき気味だった顔を上げた。「私、戻しの皿を同じにしたのがいけなかった」 フィオナは首を振る。「急いでるときは、誰でも同じ皿に入れたくなるよ。でも春は、それだと湿りまで一緒に戻るから」 「次から、苗札皿と根札皿を分ける」 「あと、迷った札は保留」 「うん。保留」 二人で言い直すと、温室の空気が少しだけ軽くなった。


 仕分けが済むと、ラウラは水差しを持ち上げた。けれど、フィオナはすぐに一本指を立てる。 「根札の列からです。苗札の列は、土へ入れる直前まで乾いたままで」 「先に根つき待ちね」 ラウラがそう言って水差しを奥の列へ向ける。水の細い筋が、必要なところだけを濃くした。手前の苗鉢は、まだ軽いまま待つ。待つ場所があると、待つことが失敗に見えない。


 やがて棚は、見ただけで分かる形へ戻った。手前に苗札、奥に根札、そのあいだに保留。湿った札は布の上で落ち着き、土粒を払った字はちゃんと読める。セラフィナは最後に、空になった木皿を二枚並べて紐を結んだ。ひとつには『苗札皿』、もうひとつには『根札皿』。戻す先まで決めておけば、次の鐘が鳴っても今日ほどは崩れない。


「助かったわ」とラウラが言った。「明日、月読み文庫へ小さな鉢を二つ届けるの。子どもの読み聞かせの窓辺に置く分」 その言葉に、フィオナは少しだけ顔を上げた。温室の緑が、明日の文庫へつながっていく。 「じゃあ、今日のうちに札も整えておいたほうがよさそうですね」 「読む前のものと、読み終えたあとのものみたいに?」 セラフィナがそう言って笑う。ようやく、いつもの顔に近かった。


 帰り道、フィオナが温室の戸を閉めると、梁でもない高い梁材の上から白い影がひとつ滑るように降りてきた。スノーだった。先に帰ったはずなのに、温室の外灯の細い光の中で、何食わぬ顔で羽をたたむ。 「……いたの?」 「土の匂いが濃すぎた。お前ら、また湿りを同じ皿へ戻しただろ」 ラウラが目を丸くする。「中を見ていないのに?」 スノーは嘴をひとつ鳴らして、すぐそっぽを向いた。「見なくても、根の落ち着かねえ匂いくらい分かる」 フィオナはそれ以上問わなかった。問うと、逃げるものがある。けれど、月のない昼の終わりに、白い鷹の羽だけがやけに静かだった。


 夕方、家へ戻ると、レオンが玄関の籠の横を見てすぐ気づいた。 「苗札と根札、ほんとに別になった」 「うん。保留も増えた」 クリスは丸い切り欠きの札を見て、うれしそうに言った。「ねっこ、やすむ」 「そう。休む場所があると、ちゃんと伸びるの」 ルミナは札を受け取って端を確かめ、静かに頷いた。「春は、伸びる前に休ませる手つきがいるわね」 アストルも工房から顔を出す。「土も紙も同じか。混ぜる前は楽そうに見えて、あとで倍の手間になる」


 窓の外では、灯路の向こうに月読み文庫の小さな灯りが見えた。明日はあの窓辺に、緑雨舎の鉢が届くらしい。読む前の栞と、読み終えた本の返し札も、きっと同じ箱へ重ねないほうがいい。


 梁の上でスノーが、乾いた苗札と、丸い切り欠きの根札、そのあいだに増えた保留札を見下ろして嘴を鳴らした。 「土は何でも受けるが、根づく順までは決めてくれねえ。だから先に名を分けろ――伸びるやつほど、急ぐ前の置き場がいるんだよ」


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