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4月16日(木):吊りしるしの日

 とある世界では今日は『言葉が少なくても身振りで楽しさが伝わり、手の順を見せるだけで場が明るくなる』日。アルメリアでは『吊りしるしの日』として、吊るす前の鉢と吊るしたあとの鉢を同じ場所へ置かず、見上げる前に手元の動きを整える日。


 夕方のフレイメル家の店先には、まだ明るい色が少し残っていた。下校と迎えをすませて家族がそろい、工房の戸を半分だけ開ける。今日は、香り卓の上の梁へ小さな吊り鉢を足すつもりだった。吊るされた芽鉢が風でわずかに揺れると、通りの人の足がほんの少しゆるむ。アストルはそういう店先の“見せ方”を考えるのが好きだった。


 梁の下には、踏み台がひとつ。その足元に籠が二つある。片方は『輪鉤札』。吊るす前の輪鉤と、まだ下にある鉢を合わせるための籠だ。もう片方は『鉢札』。これから上へ上げる芽鉢に付ける札で、吊り終えた鉢とは役が違う。輪鉤も鉢も、どちらも丸い輪を持っているから、見た目だけだと少し似ていた。


「これ、つるすやつ」とクリスが鉢を指した。


「うん。でも、まだ下だ」とアストルが言う。「先に輪鉤。鉢はそのあと」


 レオンは踏み台の脚を押さえながら頷いた。「順番は、前に回り羽やったのと同じだね。上に行く前に、置き場所を決める」


 フィオナは梁を見上げて、少しだけ目を細めた。「踏み台の近くに二つとも置くの?」


「渡しやすいだろ」とアストルは言った。得意げだった。「俺が上で受ける。下から輪鉤、次に鉢。手振りで合図すれば早い」


 その“早い”が、今日の入口になった。


 最初のひとつはうまくいった。アストルが踏み台へ上がる。レオンが輪鉤を渡す。アストルが梁へ掛ける。次にフィオナが芽鉢を渡し、アストルが輪へ掛ける。最後にクリスが下から見上げて、「ゆれた」と嬉しそうに言った。


 問題は二つ目だった。


 夕方の風が少し変わり、梁の下の札が揺れた。輪鉤札がめくれて鉢の籠のほうへ垂れ、鉢札は逆に踏み台の影へ半分隠れる。ちょうどそのとき、アストルは上で片手をふさぎ、もう片方で「次」を示すように手を振った。


 クリスはその手振りを見て、すぐに動いた。嬉しくなると、早く役に立ちたくなる。


「つぎ、これ」と言って、鉢の籠からまだ下にある芽鉢を持ち上げる。


 けれど、アストルが先に欲しかったのは輪鉤だった。


「待って、それはまだ」とフィオナが言う。


 レオンも輪鉤の籠へ手を伸ばしかけて、途中で止まった。「あれ、輪鉤札、そっちに見えた」


 誰かが落としたわけではない。クリスも鉢をちゃんと持っている。けれど、踏み台のすぐ横に輪鉤籠と鉢籠が並び、札が風で寄ったせいで、“次に上げる手”と“その次に上げる手”が同じ場所へ集まってしまった。


「ごめん」とクリスはすぐに言った。「これ、まだ じゃない」


 アストルは梁の上から苦笑した。「いや、悪いのは並べ方だ。上にいると、同じ高さの手は同じ次に見えるな」


 フィオナが言う。「止まろう。輪鉤と鉢の手を分ける」


 ルミナが短く続けた。「止まろう」


 その声で、店先の手がいったん止まる。夕方の風だけが、吊るし終えた最初の鉢を小さく揺らした。


 まず、輪鉤の籠を踏み台の左へ移す。アストルへ渡す前のものだから、踏み台にいちばん近い左だ。次に、鉢の籠を工房の戸口の内側へ下げる。まだ下にある鉢は、梁の真下ではなく、一歩後ろで待つ。


「輪鉤は左」とレオンが言う。


「鉢は中」とクリスが真似した。


 フィオナはさらに、札の向きも変えた。輪鉤札は踏み台へ向けて立てる。鉢札は戸口の中からしか見えない向きへ寝かせる。


「上に渡す手は左だけ」とフィオナが言う。「鉢は、輪鉤が掛かってから中から出す」


 アストルは踏み台の上で頷いた。「なるほど。次の次まで、同じ前に置いてたのか」


 ルミナは鉢を受ける位置を自分の前に決めた。「私が中で鉢を受ける。輪鉤が掛かったら、私からフィオナ、フィオナからお父さん」


「一手増えるね」とレオンが言う。


「うん」とフィオナは笑う。「でも、迷わない」


 その通りだった。動きは一手増えたのに、店先はむしろ静かになった。レオンが左の輪鉤籠から渡す。アストルが上で掛ける。ルミナが中の鉢籠から芽鉢を受け、フィオナへ渡す。フィオナが踏み台の下から上げる。クリスはそのあいだ、戸口の内側で次の鉢が倒れないよう、籠の縁を押さえている。


「これ、まだ なか」とクリスは鉢を見て言う。


「そう」とルミナが頷く。「輪鉤が先」


 二つ目の鉢が掛かると、梁の下の景色はさっきよりずっと分かりやすくなった。左の輪鉤籠は空へ上がる準備の場所。中の鉢籠は、その次の番を待つ場所。すでに吊られた鉢は、もうそのどちらでもない。


「できた」とアストルが言う。


「うん」とレオンが笑う。「上げる前の手と、吊ったあとの手が別れた」


 フィオナも頷く。「身振りだけでも分かるのは、足元が分かれてるからだね」


 通りすがりの近所の人が、少し足を止めて見上げた。「今日は上のほうが賑やかだねえ」


 アストルは照れくさそうに肩をすくめる。「店先の気分転換でして」


 クリスはその言い方を聞きながら、吊られた鉢を見た。さっき持ちかけた鉢は、まだ下の役だった。今揺れている鉢は、もう上の役だ。同じ芽鉢でも、いる場所で仕事が変わる。


「これ、もう うえ」とクリスは吊られた鉢を指す。


「そう」とルミナが答える。「下の手を離れたからね」


「わっこ、さき」


「うん。鉢はあと」


 その言い方が、今日は何よりよかった。高いところへ上がる楽しさを消したわけではない。ただ、上がる前の手と、上がったあとの揺れを、同じ“次”にしないで置けたのだ。


 夕方の終わりには、梁の下の道が少しだけ広く見えた。左に輪鉤。中に鉢。上には揺れる芽。動く順が分かれるだけで、家族の手はこんなにやわらかく通る。


 明日はたぶん、土だ。豆を入れる前の鉢と、芽が出たあとの鉢に、もうひとつ水差しの番が増える。


 梁の上でスノーが片翼を畳み、左の籠と戸口の内側を見比べた。「身振りは口の代わりになるが、順番の代わりにはならねえ。輪を先に上げ、鉢をあとから追わせろ――それで店先の夕は、笑ってちゃんと回る」


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