4月15日(水):回り羽の日
とある世界では今日は『高く上がるものほど、下で回す手と、戻ってくる場所を先に整えておく』日。アルメリアでは『回り羽の日』として、投げる前の羽と、飛んだあとで戻る羽を同じ箱へ入れず、上がる前と戻ったあとを静かに分けておく日。
夕方のフレイメル家の店先には、やわらかい風が通っていた。下校と迎えをすませて家族がそろい、工房の戸を半分だけ開けて、石畳の端へ小さな試し台をひとつ出す。今日はアストルが、屋根の風見魔具の回り具合を見るための小さな「回り羽」を何枚も試していた。細い木の軸に、薄い羽板を二枚差しただけの軽いものだ。手のひらで高く放ると、くるくる回りながら落ちてくる。
「見ろよ」とアストルが一本を指でつまんで言う。「上がり方はいい。あとは戻りを見たい」
レオンが目を輝かせる。「回る向きがそろってるか、だよね。戻りがふらつくなら、羽の切りが少し違う」
「そういうこと」とアストルは得意そうに頷いた。
店先の脇には浅い木箱が二つ置かれていた。片方は『投げ羽箱』。まだ飛ばしていない回り羽を入れる箱。もう片方は『戻り羽箱』。一度飛ばして、土や花粉を払ってから見直す羽を入れる箱だ。
けれど箱そのものは、どちらも同じ形だった。浅くて、細長くて、内側にやわらかい布を敷いてある。違うのは札だけ。その札も、夕方の風に少しだけめくれていた。
「これ、どっち も はこ」とクリスが言った。
「うん。でも役が違う」とルミナが答える。「飛ばす前と、戻ったあと」
フィオナは箱の位置を見て、少しだけ眉を上げた。二つとも試し台のすぐ横、しかも同じ高さで並んで置かれている。投げる手も、拾って戻す手も、同じところへ集まりやすい置き方だった。試し始める前には、それで足りるように見えた。けれど、夕方の風が札を少しだけめくると、違いはすぐ薄くなる並びでもあった。
最初の二本はうまくいった。レオンが投げる。回り羽は夕方の風をつかんで高く上がり、くるくる回って石畳へ戻る。クリスがそれを拾い、ルミナへ渡す。ルミナは羽の端の土を指で払ってから、戻り羽箱へ入れる。
「たかい」とクリスは言った。
「うん。だけど、戻ってきたらまだ見るんだ」とレオンが言う。「飛んだから終わりじゃない」
三本目のとき、風が少しだけ変わった。投げ羽箱の札がめくれ、戻り羽箱のほうへひらりと寄る。ちょうどそのタイミングで、クリスは戻ってきた回り羽を両手で持っていた。まだ温かい指の中で、羽は少しだけ回りぐせを残している。
「これ、こっち?」
クリスは箱を見る。札は見える。でも、寄った札のせいで、今どちらが“まだ”で、どちらが“あと”かが少し曖昧だった。
レオンも次の一本を取ろうとして、手を止める。「あれ、投げ羽箱って、そっちだった?」
アストルもようやく箱を見た。「ん?」
その一瞬で、石畳の上の動きが少しだけ詰まった。クリスは戻り羽を持ったまま立ち、レオンは次の一本に手を伸ばしかけたまま止まり、ルミナは払うための布を持ったまま待つ。誰かが何かを落としたわけではない。ただ、“飛ばす前”と“戻ったあと”の箱が、同じ高さで同じ並びにいたせいで、次の手が迷ったのだ。
フィオナがすぐに言った。「止まろう」
アストルも頷いた。「うん。今のは箱が悪い」
クリスは小さく言う。「ごめん。これ、まだ じゃない」
「うん。でも、クリスだけじゃないわ」とルミナが答える。「箱が近いと、手も迷うの」
アストルは二つの箱を見下ろし、鼻の頭をひとつ掻いた。「並べただけじゃ、風のいたずらまでは分からなかったなあ」
「投げる手と、戻す手が同じ前に入るからだよ」とレオンが言う。「しかも札が風で寄った。次の一本を取る手と、戻った羽を置く手が、同じ景色を見ちゃう」
フィオナはすでに動いていた。投げ羽箱の下へ、背の高い木切れをひとつ置く。戻り羽箱の下には、低い布たたみを敷く。さらに札の向きも直し、投げ羽箱の札は上向き、戻り羽箱の札は手元側へ寝かせる。
「投げる前の箱は高く」とフィオナが言う。「次に見るのはこっちだから」
ルミナも続ける。「戻り羽箱は低く。拾って戻す手は、下へ置く」
「高さで分けるのか」とアストルが感心したように言う。
「うん。札だけじゃなくて、目線も分ける」とフィオナ。
レオンはさらに、投げる場所を半歩だけ左へ、拾う場所を右へずらした。「これで、投げる人は左。拾う人は右。真ん中は空ける」
「まんなか、あける」とクリスも真似した。
それだけだった。箱を置き替え、札の向きを直し、立つ位置を半歩ずらしただけ。けれど、店先の空気はさっきよりずっと分かりやすくなった。
もう一度、回り羽を飛ばす。
レオンが高い投げ羽箱から一本を取り、アストルへ渡す。アストルが指先で軽く回して放る。回り羽は上へ上がり、夕方の風をつかんで戻ってくる。クリスが右側でそれを拾い、低い戻り羽箱へ置く。ルミナがあとで順に見直す。
今度は、誰の手も途中で止まらなかった。
「できた」とクリスが言う。
「うん」とレオンが笑う。「投げる前は上。戻ったあとは下」
アストルも肩の力を抜いて笑った。「箱を増やしたわけじゃないのに、急に早くなったな」
フィオナは頷く。「置き方が違うだけで、次の手が迷わなくなるんだよ」
通りの向こうから、修理を受け取りに来た近所の人がひとり立ち止まった。「今日は飛んでるねえ」
アストルは照れくさそうに回り羽を見せる。「風見魔具の戻り具合の試しでして」
その言い方を聞きながら、クリスは右の戻り羽箱を見た。さっきまで同じ箱に見えたのに、今はもう違う。高いほうは“まだ飛んでない羽”。低いほうは“帰ってきた羽”。同じ形でも、置く場所が違うと、役がちゃんと別れる。
「これ、かえって きた」とクリスは低い箱を指す。
「そう」とルミナが言う。「帰ったら、いったん休ませる」
「つぎ、うえ」
「うん。次に飛ぶのは上の箱」
その言い方が、今日は何よりよかった。高く上がることだけを喜んだんじゃない。戻ってくる場所まで一緒に分けて見られたからだ。
夕方の光が少しずつやわらかくなり、石畳へ落ちる回り羽の影も長くなる。投げる前の羽は上の箱で待ち、戻った羽は低い箱で静かに並ぶ。そのあいだの半歩だけ空いた道が、家族の手をちょうどよく通した。
帰り際、クリスはもう一度だけ二つの箱を見比べた。
「うえ、まだ」とクリスが言う。
「した、かえった」
その二つが分かれば、今日は十分だった。
明日はたぶん、吊るす前の鉢と、吊るしたあとの鉢を分ける日になる。輪に通す前の手と、揺れを見に行く手は、また少しだけ近づきすぎるかもしれない。
梁の上でスノーが羽をひとつ鳴らし、高い箱と低い箱を見下ろした。「上がるもんには、帰る場所が要る。投げる前と戻ったあとを同じ顔で並べるな――それだけで、こいつらの手はちゃんと風より先に迷わねえ」




