4月11日(土):手あげ輪の日
とある世界では今日は『うれしいときに両手を上げる前に、まだ仕事の途中の紐と、もう喜んでいい輪を分けておく』日。アルメリアでは『手あげ輪の日』として、結ぶ前の紐と手首にかける輪を同じ皿へ置かず、手が先に喜びへ走らないように整える日。
昼の近所の空き地には、春の布が揺れていた。灯路番所の手前に立つ低い木柱へ、色の薄い布を一本ずつ結び、風の向きを見る小さな飾りを作っているのだ。高いものではない。子どもの手が届く高さで、結び目を作れた子から、両手を上げて「できた」を見せる。それが、今日の手あげ輪の日だった。
布は、昨日の道中包みで余ったやわらかい端布から切ってある。細長い紐のままのものと、もう輪に結ばれて手首へかけるものが、どちらも同じ色で、同じくらいのやわらかさをしていた。
ルミナは木の皿を二枚、空き地の端へ並べた。一つは『まだ むすぶ』。もう一つは『もう わ』。文字は違うのに、皿の形は同じだ。
「結ぶ前の紐はこっち」とルミナが左の皿を指す。「手首へかける輪は、結び終わってから右の皿」
「わたし、わ」とクリスは言った。輪のほうが、すぐ腕に通せて、うれしいからだ。
フィオナが笑う。「まだ早いよ。先に柱へ結ぶ紐」
レオンも頷く。「輪は、終わってから。今日はそこ、大事」
クリスはうなずいた。けれど、胸の中では“うれしい”のほうが、ちゃんと“まだ”より近くにある。
最初の一本は、ルミナが見本を見せた。紐を柱へ回し、結び目を一つ、端を揃える。そこから余った短い布は、丸めて小さな輪にして右の皿へ置く。
「できたら、これ」とルミナが右の皿の輪を見せる。「手首へ通して、それから両手を上げる」
クリスはそれをじっと見た。結ぶ前の紐も、結んだあとの輪も、さっきまで同じ布だった。なのに、右の皿へ行くと、急に“できた”の形に見える。
前の子が一本結び終え、輪を手首に通して、両手を高く上げた。布がひらりと揺れる。
「わあ」とクリスは言った。うれしい。ああいうふうに、早く両手を上げたい。
自分の番になると、クリスは左の皿から一本取る。柱へ回す。けれど、途中で手の中の布がくるっと丸くなった。やわらかい端布だから、軽く巻いただけで、輪みたいな形になる。
「これ、わ」とクリスは言って、そのまま自分の手首へ通した。
まだ結んでいない紐なのに、輪に見えたからだ。
「できた」と胸を張って、両手を上げる。けれど、次の瞬間、その輪はするりとほどけて、手首から落ちた。落ちた紐は、右の皿にあったほんとうの輪の上へ重なる。
「あ」とレオンが言う。
クリスはしゃがみこみ、落ちた紐を拾おうとする。拾う手が急いでいるから、右の皿の輪まで一緒に持ち上がる。
「こっちも わ」とクリスは言う。
「ちがう、それはもう結んだやつ」とフィオナが言った。
でも、クリスの目には、今はもうどちらも似て見えた。やわらかい布。丸い形。手首に通る大きさ。違うのは、結び目があるかどうかだけなのに、うれしい気持ちが先だと、そこが見えにくくなる。
近くにいた見習いパドも足を止める。「あれ、どっちがまだ結ぶ紐ですか」
空き地の端で、二つの皿のあいだが少しだけ曖昧になった。誰かが怪我をしたわけではないし、柱の布が全部ほどけたわけでもない。ただ、結ぶ前の紐と、もう手首へ通していい輪が、ひとつの束に見えただけだ。
クリスは小さく言った。「ごめん。わに みえた」
ルミナはすぐに叱らなかった。まず皿を見て、次にクリスの手を見た。そして言う。
「止まろう」
その声は、急がない形をしていた。
フィオナが落ちた紐を拾い、レオンは右の皿の輪をそっと戻す。けれど、すぐに結び直しはしなかった。今のクリスには、まだ“輪に見える”気持ちのほうが残っているからだ。
「どう違った?」とルミナが訊く。
クリスは手の中の布を見る。「……こっち、まだ ひも」
「うん」
「こっち、もう わ」
「そう。違うのは?」
クリスは少し考えてから、ほんとうの輪の結び目を指した。「むすんで ある」
レオンが頷く。「まだの紐は、丸くなっても輪じゃないんだよね」
「うん」とフィオナも言う。「手首へ行っていいのは、結び目ができてから」
その言い方が、クリスには分かりやすかった。“丸い”じゃない。“結んである”。それなら、さっき自分が腕に通したものには、まだそれがなかった。
ルミナは皿を少しだけ離して置き直した。左の皿は柱のそば。右の皿は、子どもの立つ位置の少し後ろ。さらに、右の皿の輪は、結び目が見える向きに揃える。
「これで、まだの紐は柱の近く」とルミナが言う。「輪は、終わってから後ろで取る」
クリスはその並びを見た。さっきは二つの皿が近かった。近いと、気持ちもすぐ飛んでしまう。少し離れただけで、足が先に行きにくくなる。
もう一度、自分の番が来た。今度は左の皿から紐を取る。柱へ回す。結び目をひとつ。端を揃える。まだうまくはないけれど、ほどけないくらいには結べた。
「できた」とクリスは言ったが、まだ両手は上げない。
レオンが笑う。「まだ輪がない」
「うん。まだ」
それから後ろへ回って、右の皿から輪を取る。結び目が見える。手首へ通す。そこでようやく、両手を上げる。
「あがった」とクリスは言った。
その言い方が、今日は何よりよかった。うれしさを消したんじゃない。順番を一つ増やしただけで、手がちゃんと喜びへ着いたのだ。
見習いパドも、左の皿から紐、後ろで輪、と同じ順を真似する。空き地の布は少しずつ増え、春の風にひらりひらりと揺れた。
片づけのころ、クリスは左の皿を見てから右の皿を見る。「まだ ひも、さき。わ、あと」
「そう」とルミナが頷く。「結ぶ前の紐と、手首の輪は、同じ布でも役が違うの」
帰り道、クリスは輪を手首でくるりと回してみた。今度は落ちない。ちゃんと結び目があるからだ。
明日はたぶん、空へ向くものと、下で支えるものを分ける日になる。高く上げる前のものは、まだ地べたの手にいる。
梁の上でスノーが尾をひとつ揺らし、左の皿と右の皿を見比べた。「輪は丸けりゃいいってもんじゃねえ。結んでから腕へ回せ――順を一つ守るだけで、ちびの喜びはちゃんと落ちねえ」




