4月9日(木):大扉ひらきの日
とある世界では今日は『大きなものを見上げる前に、開ける手と待つ足を整え、まだ閉じる時ではないものをうっかり閉じないようにする』日。アルメリアでは『大扉ひらきの日』として、大きな戸を開ける前の鍵と、開けたあとの鍵を同じ場所へ掛けず、待つ列と進む列を静かに分けておく日。
昼下がりの星粒ほいくえんの玄関広間は、いつもより少しだけ高く見えた。正面の壁に、春のはじめだけ開ける高い戸棚がある。中には、大きな木の見守り飾りが座っていて、子どもたちは進級して最初の週にだけ、その前で小さな花を一輪置く。昨日の花待ちの日より人は少ない。けれど、見上げる相手が大きいぶん、足が先へ出やすい日でもあった。
戸棚の脇には、真鍮の鍵が一本。壁の木釘が二つ。釘の横には小さな札も二枚ある。一つは『ひらく前の鍵』、もう一つは『ひらいたあとの鍵』。意味は違うのに、札の形はよく似ていた。
「これ、きのう の かぎ?」とクリスが訊いた。
星粒ほいくえんの先生が笑う。「昨日のじゃなくて、今日の戸棚の鍵よ。開ける前はこっち。開けたら、あっち」
先生はそう言って、『ひらく前の鍵』の下から鍵を外し、高い戸棚を開けた。中の見守り飾りは、丸い顔で少しだけ見下ろしている。木の匂いと、朝に替えた花の匂いが、戸棚の中からふわっと出た。
クリスは思わず一歩前へ出る。「おおきい」
「うん。だから、順番にね」と先生が言う。「見終わるまでは、鍵は『ひらいたあとの鍵』へ掛けるの」
先生は戸棚の内側の釘へ鍵を掛けた。これなら、まだ開いている戸だと誰にでも分かる。見守り飾りの前には小さな花皿が置かれ、迎えを待たない昼のうちに、組の子どもたちが順に一輪ずつ花を足すことになっていた。
クリスは自分の番を待つあいだ、その鍵が気になって仕方なかった。開いているときの鍵。閉じる前の鍵。どちらも“今日の鍵”に見える。違いは、掛かっている場所だけだ。
前の子が花を置き終わり、先生が「次、クリス」と呼んだ。クリスは花皿から小さな白い花を一本取る。見守り飾りの前へ進む。花を置く。見上げる。うれしくなる。
そして、うれしくなると、手はつい次の役もやりたくなる。
「わたし、かぎ も もどす」とクリスは言った。
先生が「あっ」と声を出したときには、クリスは戸棚の内側の釘から鍵を外し、くるりと振り向いて、外側の『ひらく前の鍵』の木釘へ掛け直していた。
「おわった」とクリスは胸を張る。
でも、まだ終わっていなかった。後ろには、次に花を置く子が二人待っている。外側に鍵が戻ると、見守り飾りをまだ見ていない子にも、戸棚がもう閉じる番みたいに見えてしまう。
「もうしまうの?」
「まだ みてない」
「つぎ、いっちゃだめ?」
後ろの列の足が、少しだけ止まったり前へ出たりする。誰も泣いてはいないし、戸棚がすぐ閉まるわけでもない。けれど、“開いているあいだの鍵”が見えなくなったせいで、待つ足と進む足が同じ場所で迷い始めた。
クリスは外側の鍵を見て、それから戸棚の中を見た。見守り飾りは、まだそこに座っている。なのに、手の中では“おわった”の感じが先に出てしまった。
「ごめん」とクリスは小さく言った。「かぎ、かえした」
先生はすぐに叱らなかった。まず、列の子たちを見てから、戸棚を見て、それからクリスの手を見た。
「止まろう」と先生が言う。
その声は低くて、昨日と同じで、急がない形をしていた。
ルミナは今日も迎えの前に少しだけ様子を見に来ていて、広間の端でそのやりとりを見ていた。けれど、すぐに鍵を戻しには行かない。昨日の花待ちの日と同じで、まずは前に出た足を落ち着かせるほうが先だった。
先生は次の子へ向かって言う。「戸棚はまだ開いてる。だから、列はそのまま」
でも、鍵は外側にある。言葉だけだと、まだ少しだけ足が揺れる。
フィオナなら札をすぐに増やしたかもしれない。レオンなら、並びを声で区切ったかもしれない。けれど今日は、クリスの目にいちばん分かりやすい形へ戻すのがよかった。
先生は木の小皿をひとつ持ってきて、『ひらいたあとの鍵』の札の下へ置いた。「開いてるあいだは、鍵は釘じゃなくて、この皿へ置きます」
「さら?」とクリスが訊く。
「うん。皿が見えたら、まだ開いてる。外の釘に戻るのは、本当にしまう前だけ」
先生はそう言って、外側の釘から鍵を外し、皿の中へそっと置いた。真鍮の重みで、皿が少しだけ鳴る。音が出ると、そこが“今の置き場所”だとはっきり見えた。
列の子たちも、その皿を見る。戸棚はまだ開いている。だから、まだ進んでいい。
「つぎ、どうぞ」と先生が言う。
次の子が花を置く。次の次の子も置く。クリスは列の端へ戻り、皿の中の鍵を何度も見た。釘に掛かる鍵と、皿に寝ている鍵。同じ鍵なのに、役目が違って見える。
「これ、まだ ひらいてる かぎ」とクリスは自分で言った。
「そう」と先生が頷く。「閉じる前じゃないのに、外へ戻したら、みんなの足が迷うの」
それを二回見たころ、クリスの中で、鍵の場所と戸の状態が少しずつ結びついてきた。外の釘は“まだ前”。皿は“いま開いてる”。閉めるのは、みんなの花が終わってから。
最後の子が花を置き終わると、先生は戸棚の前で一度だけ手を合わせ、それから鍵を皿から取った。
「今はどっち?」と先生が訊く。
クリスは迷わず答えた。「ひらくまえ の くぎ」
「うん。もう閉めるからね」
戸棚の扉が静かに閉まり、鍵は外側の木釘へ戻る。今度はクリスも、その戻り方をちゃんと見ていた。さっきは、見守り飾りを見た嬉しさで、閉じる順まで先にやってしまった。でも、本当に閉じるのは、最後の子が終わってからだった。
「わたし、さきに かえした」とクリスは言った。
ルミナがしゃがんで、目を合わせる。「うん。でも今日は、開いてるあいだの鍵の置き場所が分かったでしょう」
「さら」とクリスは言う。
「そう。開いてるあいだは皿。閉める前は外の釘」
その言い方が、今日は何よりよかった。鍵を触るな、ではなく、今どこにいる鍵かを分けて言えたからだ。
帰り道、クリスは自分の小さな手を見た。まだ少しだけ花の匂いが残っている。
「かぎ、ねてた」とクリスがぽつりと言う。
「うん」とルミナは笑う。「開いてるあいだの鍵は、皿で待つの」
大きいものの前では、嬉しい気持ちも先へ出やすい。だから、開ける前の鍵と、開けたあとの鍵は、同じところへ掛けないほうがいい。待つ足と進む足が、それだけで少し迷わずに済む。
明日はたぶん、箱だ。運ぶ前の箱と、棚に置いたあとの箱を、同じ札で呼ぶとまた手が迷う。
梁の上でスノーが片翼をすぼめ、外の釘と皿の位置を見比べた。「鍵は数じゃ働かねえ。開いてるあいだの居場所を教えろ――それだけで、ちびの足は勝手に順番へ戻る」




