足軽、大将首をとる
結花と玲は結花の自室へ戻った。
暫くして軽いノックの音がした。
「はい、どうぞ」
「お嬢様、こちらをお使いください」
手渡された救急箱を素直に受け取った。
使用人が一礼してドアを閉めると玲は大きくため息を吐いた。
「……結花、手。見せて」
「え?大丈夫だよ。それよりも、玲さんの顔の方が……」
「結花」
「……はい」
隠していた手をそっと開く。
握り拳の爪が当たる部分の皮が抉れ血が滲んでいる。
玲はまた大きく息を吐いた。
「少し、沁みるよ」
「ーッ!!」
結花の手がピクリと震える。
薬を塗り、消毒済みのガーゼを当てる。手のひらの中心に広がる傷は絆創膏では収まらない。
軽く包帯をまいてから外れないように固定する。
「玲さん、手慣れてる?」
「まあね。一応武術やってるとたまに怪我するから……」
「……そっか。ありがとう」
それから今度は結花が玲の傷を見る。
「見事に引っ掛かれてる。傷にならないといいけど……」
「いいよ、別に。結花を守れたんだから、それぐらい残っても」
「良くない!……よく、ないよ。傷を見るたびに彼女を思い出すのヤダ……」
泣きそうな結花。
いつも人を守るために自分を平気で傷つける。
そんな結花を好きになったが、いざ自分が守られると……。
「痛いな」
「あっ、ごめん。沁みた?」
「……違う、一人言」
「そっか……。一応傷跡残らないテープ貼るね」
結花が玲の頬の傷に合わせて切ったテープを貼る。
そのまま、頬の傷に触れないようにしながら玲の顔の輪郭を撫でる。
「いたいの、いたいの、とんでいけー」
「何それ?」
「おまじない?知らない?」
玲は結花のその手を優しく掴み、距離を縮める。
触れ合うだけの口づけ。
でも、今はそれだけでいい。
※※※
応接間には何箇所か防犯を含めたカメラが仕込まれている。
橘母娘が来たときから、すでに勝負は決まっていた。
娘の結花に連絡したのは、帰宅時刻に鉢合わせる事故と警戒を促すためであった。
予定より早く帰宅した結花は静かに裏口から入ってきて、情報処理室にやってきた。
「お母様、戻りました。来たところですか?」
「ええ、まだ来てすぐです。あなた達はもう少し遅くなるかと思っていました……」
「コレ、音声も拾ってますか?」
「勿論。後で報告に必要ですからね」
夫に対する橘夫人の上目遣いに吐き気がする。
「ぅわー。思ったより酷いですね。リアル夢女?お父様、完全に困ってますね。救出してきます」
「ええ、よろしくね。玄関から入りなさい」
「承知しました」
そして、間もなく、玄関の扉が開く音がした。
結花たちの登場で橘親子は更にヒートアップする。
結花に対する罵詈雑言を結花は無表情で受け流す。
しかし、婚約者が傷つけられ、さらに私への侮辱が始まったところで、風向きが変わった。
相手から髪を引っ張られても振りほどかずに、体を動かす。
揉み合いになりそうなら距離をとる。
掴みかかられると、するりと避ける。
結花は口撃しても、決して相手を触らない。
結花は硬く拳を握りしめる。
「あれは、手のひらを抉っているわね……」
誰もいない部屋で一人呟く。
映像からは見えないけれど、きっと血が滲むほど握り込み、耐えている。
言葉は悪いけれども、いつも自分が感じていた事をはっきりと口にしていく娘の姿に胸がスカッとする思いだ。
終始娘のペースで相手方を追い出した。
映像を切り替えてタクシーが敷地から出るところまで確認する。
応接間は静まりかえっていた。
肩で息する娘の姿と呆気にとられた娘の婚約者と家人たち。
夫まで口をポカンと開けている、珍しい表情だった。
娘の手をとると、手のひらは爪が食い込み皮膚が破れ血が滲んでいた。
娘は自分の言動を思い出して気まずいと婚約者を連れて逃げ出した。
「っふ、ふふふふ」
「はっ、はははは」
「あはははは」
私が思わず笑った声に、夫、普段なら顔色も変えない使用人たちまで笑う。
厄病神を追い払うように、殊更明るい笑い声が屋敷に響いた。
治療を終えた娘たちが応接間に戻った時には、私たちは何事もなかったかのように並んで座っていた。
「結花は暫く、手が不自由ね。でも、手を出さなかったのは良かったです」
結花の両手に巻かれた包帯が痛々しい。
結花はニコリと笑う。
「名誉の負傷です。それに箱根の姉さんたちから、喧嘩は何があっても先に手を出すなと教えられてきました。私は色恋や営業でトラブルになる事は無かったのですが、長くやっているとそれなりに染まってしまいました」
「ハァー。いや、参った。娘の新たな一面を見たよ」
夫がまた思い出し笑う。
「申し訳ございません。とっさに血が上りました。ですからお父様も玲さんもさっきの事は忘れてくださいね」
「いやいや、娘に守られるとは……。情け無くとも嬉しいものだね。この歳では守られるという事がもうあまりないからね……」
「アラ、私はいつも貴方をお守りしていますよ?」
「妻は別だよ、いつもありがとう」
夫は皺が深くなった目尻を下げる。
「さて、それで今後について話そうと思う」
瞬時に部屋の空気が張り詰める。
玲さんが、ぐっと目に力を入れる。
「先程は私が不甲斐ないばかりに、結花さんに怪我をさせてしまい、申し訳ございません」
「君も、結花を守り負傷した。この件について、君が責任を感じる必要はない」
夫はきっぱりと言った。
「それでは、改めて共有を。まずは鷹司本家は奥から剪定の指示がありました」
「ええ、それは鳳院の奥からも出ています」
「鷹司では、橘の栄養を削ぎ落としたので、まもなく立枯れるだろうと見込んでいます。それから、今まで両輪に使っていたものは排除しました」
「ほう、では赤坂の辺りか?」
「大先生を集めて足元を見せましたところ、皆さん泥舟からの引き揚げが早く……」
「それは見ものだったろう」
「鳳院からは信用を抜いておいた。もう社交界に戻って来られまいよ」
「……それは助かりました」
玲さんは夫の言葉にホッと一息つく。
後日、煕子は結花を連れて鷹司本家へ向かった。
鷹司家の大奥様をはじめ、馨様、瑠璃さん、葵、そして朝比奈家の奥様が集まる。
「なんや、えらい面白い事になったって聞きましたけど、教えてもらえる?」
「先日、我が家に暴漢が参りまして。このような結果になりました……」
煕子から渡されたメモリを葵がセットする。
急遽始まった上映会に映っていたのは……。
「……さゆりちゃん?」
瑠璃さんが思わず懐かしい芸名を口にする。
「あははは!!これは傑作ね!!」
「この啖呵の切り返し方、天才的だわ!!」
馨様が腹を抱えて、涙を流して笑っている。
葵は満足気に何度も頷く。
朝比奈の奥様だけが、目を真ん丸に開いて驚いた顔をしていた。
「まぁまぁ、結花ちゃん。これはお家の中やからとっても元気があってよろしい。でも、これは人前では、アカンよ?」
「……はい」
「なんや、足軽に大将首取られたね。ほんまに可笑しいわ」
鷹司の大奥様がコロコロと笑う。
そして後に、社交界では――
『朝比奈家に嫁いだ一条の娘とは、喧嘩をするな』
と、どこからともなく囁かれるようになる。
結花がそれを知るのは、まだ先のことである。




