橘の妙案
それまで楽しそうに今日の出来事を振り返って話していた結花が、自分の端末を確認した途端に、一瞬だけ表情が抜けた。
「……結花?」
「あっ、ごめんね!なんの話だったっけ?」
「なにがあった?」
「……。一条の家にお客様。前に押しかけてきた人、また来てるみたい……」
「橘か……」
重い空気を乗せたまま、車は走る。
※※※
気晴らしの買い物もこのところ欲しい物が手に入らない。
お友達をお茶に誘っても何かと断られた。
しかし、SNSを見ると私以外が集まって写っている写真。
R.N.E.P.R.S――“レプレス”のタグ。
私の倶楽部なのに勝手に名乗っているのが腹立たしい。
どうしてこうなったの?
「アナタ!このカードが使えないってどう言うこと?昨日、店で恥をかいたわ!!こんな屈辱初めてよ!!」
帰宅した夫を捕まえてどういう事なのか聞いた。
「……そうか。今後も暫く使えないから家で大人しくしていてほしい」
夫はこちらを見る事なく、ため息ばかり吐く。
「どういうこと!?他のカードは大丈夫なの?」
「……。他のカードも一緒だ。とにかく今は一家の存亡の危機なんだ。お前も橘を守るために働いてくれよ……!」
「ハァー?なんですって?!今の橘の地位があるのは誰のおかげかしら?それを使って商売もしているでしょう?私がいなかったら、こんなにいい暮らしが出来ていたと思っているの?感謝されても、そんな言い方をされるとは……心外よ!!」
「……うるさい。怒鳴らないでくれ。お前がいるからこうなったんだ……」
夫が力なく呟く。
前は素敵な王子様のような風貌だったのに、いまは白髪とオデコが広がっている。
隣に立つのも幻滅する夫の風体にもイライラする。
「あらそうですか!私もこんな人だと思わなかったわ。顔も体型もだらしなくて、今度はお金まで持っていないなんて、アナタの良いところは一つもないわね!」
「そうか、そう思うのなら離婚してくれ」
「そうやって、面倒になるとすぐに離婚って言うのはなんなのですか!夫婦は死ぬまで添い遂げるものでしょう?私だって我慢しているんです!」
「そうか……どうでもいいから、娘に朝比奈に手を出すな、一条に関わるなと伝えろ」
「なんですって?!今更あの娘に朝比奈を諦めさせるの?なんて酷い父親ね!」
私の気持ちを尊重せずに、今度は娘の希望まで否定する。
なんて可哀想な私たち。
そして、なんて酷い夫で父親かしら!
ソファーのクッションを夫に向かって投げる。
夫は大袈裟に避けてよろけている。
「とにかく、娘を止めろ!お前は母親だろう?」
「父親が不甲斐ないばっかりに可哀想なあの子。アナタがそんなだから一条に舐められるのよ。今度は私が行って直接養女を追い出して見せるわ!!」
夫を残して部屋を出る。
執事をこの二、三日見ていない気がする。
用事を言いつけるのに不便なので、実家から人を寄越すように頼もう。
執事はクビにする事に決めた。
「誰か車を出してちょうだい!」
何故かお抱え運転手ではなく、タクシーを手配された。
「タクシーで移動なんて、はしたない。運転手はどうしたの?もうクビね。もっと忠実に働く者を雇わないと……」
娘が玄関へやって来た。
「お母様!私も一緒に行くわ!私の事ですもの……」
「貴女はなんて賢いのかしら。貴女を見て一条家は先日の失礼を土下座して謝るはずよ」
家の前に来たタクシーに乗り住所を告げる。
「先日は、主人が伺ってなにやら少々行き違いがございましたけれど……」
通された応接間。
塵一つなく整った空間には、華美ではないが、一目で価値のあるものだとわかる調度類が並んでいる。
さすが一条家、と言ったところかしら。
あら、あちらに並んでいる……あれは私が欲しかったものだわ。
あとで頂きましょう……。
「本日のご用件は?」
こちらを見て微笑む一条さん。
昔は大した事がないと思っていたけれど、今見るとダンディで素敵。
夫の弛んだ体型と違い、スラリと引き締まっている。
それに顔に浮かぶ笑い皺が歳相応の貫禄があり、惚れ惚れと見てしまう。
……そうだわ。
この人の妻になれば、養女なんて気にせずに娘を朝比奈へ嫁がせる事ができる。
なんて素晴らしいアイデアかしら。
それに、一条も私が嫁げば鳳院の傘下ではなく、独立したグループを持てるのではないかしら。
私はそこで、奥を取り仕切る。
あの、うるさい『大奥』をさっさと追い出す事もできるはず。
そもそも、どうしてあの人達がいつも上座なのか、自分の価値、華やかさ、話題の中心、どれをとっても私が一番なはずなのに……。
でも、橘という家格の下のものに請われて嫁いでしまった私が愚かだったのね。
娘にはそんな思いをさせないように、朝比奈から鷹司を取り込めばいいのよ。
方法はいくらでもある。
おいおい娘に伝えましょう。
私が一条夫人になるのだから、東西は安泰ね。
「……橘さん?」
一条さんが私を呼ぶ。
少し困った顔もまた素敵。
「……ぅうん、失礼しました。本日は、こちらのご縁組についてお話しさせていただきたくて、参りましたの」
「……。それは、先日お断り致しました」
「ええ、そこが行き違いだったのです……」
私は美しく見える角度で目を伏せて、
「先日は夫が早とちりしてしまったようで……まずは私たちの今後について話をしましょう。私、どちらにも利がある話を思いついたのです」
「……私たち。ですか?そもそも決まった話に口を挟むのは貴家の方ですが?」
「……そもそもが、誤解なのです。今の関係を一度整理して、新しい形にするのが一番よろしいと思いますの……」
一度顔を上げて、一条さんの目を情熱的に見つめる。
「そうよ、今のままではお互い不幸でしょう?」
一条さんは戸惑った顔をする。
それはそうね。この私に見つめられて照れていらっしゃるのだわ。
なんて、可愛らしい方。
「私も、今の夫とはもう……」
離縁しましょう。
「…………は?」
一条さんは意味がわからないと言う。
そうね。
私から話をするなど、少しはしたなかったわ。
ここは涙で語りましょう。
男性は美しい人の涙をみると放っておけないでしょ?
「いきなりで、ごめんなさい。あら、涙が……。私、今夫に娘共々家を追い出されてしまいまして……。行く当てもなく、こうして一条さんのご縁に縋りたくて来てしまったのです……」
カバンからハンカチを出して、出ていない涙を拭く。
「……え?」
一条さんは、大きく深呼吸をする。
そんなに期待しているのかしら、今夜。
「待ってください。貴女は我が家に何をしにきたのですか?」
「私とアナタの縁談の話ですわ。本来なら仲人を通さないといけないけれど、直接お会いして決めたのです!」
言葉にならないと身体を震わせる一条さん。
「……私は、妻帯しておりますが」
「存じておりますわ!私たちは想い合ったのが遅かったのです……」
「お母様が一条夫人になれば、私も正式に一条の娘になれますもの!それに、素敵なお父さまが出来て嬉しいわ!お母さま!!」
今まで黙っていた娘からの援護。
「ですから、まずお互い今の婚姻関係を整理いたしましょう?」
※※※
応接間は一条家の無音と橘親子の興奮する鼻息が交錯した。
その異様な間を切り裂くように応接間の扉を軽くノックする音が響く。
「結花です、戻りました。入ってもよろしいかしら、お父様?」
「あぁ、入りなさい」
一条の父は珍しく焦った声で結花を呼ぶ。
「あら、お客様でしたか?もう帰られたかと思っていましたのに……」
結花は振り返って、
「お客様にお茶の代わりをお持ちしてくださいね」
と使用人に言付ける。
「かしこまりました、お嬢様」




